「積層する時間:この世界を描くこと」
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気候変動や大気汚染等による環境問題、複数の地域で今なお続く紛争や戦争、貧困や経済格差、人種差別、性的マイノリティの権利、移民・難民問題、新しい感染症の伝播など、今日、私たちは多くの深刻な問題と直面しています。一方で、この数百年という時間をかけて科学技術の進歩から社会的・文化的な発展まで、より良い未来のための土台を築いてもきました。ただし、これらの進歩や発展は同時に新たな課題を生むこともありました。このように私たちの今生きているこの世界は、過去の膨大な時間の重なりの上にあります。本展では、過去の歴史や記憶、現在という時間、あるいは未確定な未来について、様々な時間を取り上げることで世界の様相を浮かび上がらせます。また、「時間」というテーマに連動し、本展では「描くこと」をもう一つのテーマとして設定しています。描くことは美術の歴史の中でも最も古くから行われてきた表現行為の一つであり、今なお美術の中心部を成しているといえます。ドローイングを何枚も描いたり、絵の具のレイヤーを重ねイメージを導き出したり、画面にオブジェや自然の素材を重ねるなど、描く方法も多様化しています。また、描かれたイメージを連続させるアニメーションや版木を彫って画面を作り上げる版画なども描く行為の一部といえます。描くことは、それ自体に多くの時間を費やし、物理的な素材やイメージを幾層にも重ねながら画面の深部へと鑑賞者を誘います。本展では、絵画、ドローイング、アニメーション、版画などの手法を使って、過去の出来事への鋭い批評、土地が持つ歴史や神話、植民地化や戦争の歴史、風景や自然の中に眠る過去との接続や時間の流れ、土地に刻まれた記憶、生と死という生命の時間など、アーティストそれぞれの問題意識や関心から複数の積層した時間が描き出された作品を紹介します。それぞれの作品を前にして、私たちはどのような時間を過ごし、どのような思考を巡らすことができるでしょうか。人類が経験してきた過去の時間から風景や個人に内包する親密な時間まで、この世界を感じ取り、次なる時間の層(一未来)について考える契機となることを期待しています。

《ベネズエラとコロンビアの国境 》2019年 ヴィルヘルム・サスナル
>> 描くことを見ること
“描くこと”は、いまだ対象化〈知覚・認識〉もされぬ、とらえられないことを“見ること”でもある。多視点に開かれる表面〈状況〉を俯瞰するように、多層化され閉じようとする表面上〈現状〉を計測することに等しい、のかもしれない。
絵を描くのに先立って、写真イメージのようなものがあらかじめあるわけではない。手が描くまでそれを見ることができない。手が描いたものを目そして頭がイメージとして認め、はじめて知るのである。
言葉を言葉として受け取り、それの言うことを識るためには、誰がそれを言ったのか、を忘れ、言葉に向き合わなければならない。言葉を聞くための倫理。身体の言葉、動物の言葉、植物の言葉を聞くための倫理。
つまり言葉に誰かは内在している。が、その誰かを認められない=承認できないために受け取ったはずの言葉自体までも言葉ではなかったと否定してしまう。ただの雑音、無意味な音の連なりにまで貶めてしまう。
『而今而後ーー批評のあとさき V アトピーの報せ 倫理 – 植物の報せ』岡崎乾二郎/著
>>意外と隣り合うことがないキーファーとリヒター

《重い水》1987年 アンゼルム・キーファー

《ベティ》1991年 ゲルハルト・リヒター

《時間の抵抗》2012年 ウィリアム・ケントリッジ
《時間の抵抗》について
>>時間という概念に従属するのか?抵抗するのか?
これは私が作ったのかもしれない。まるで私が作ったかのような感覚、それが世界に何かを作る能力を与えてくれるのです。私は、人々が何を感じるべきかを予測することはできまん。
私は何が浮かび上がるかに興味があります。作品を見る人々の中に作品への何らかの反響がなければ、人々は時間をかけて見ようとはしないでしょう。長年にわたり様々な場所でこの作品を見てきた人々の数から見ても、作品には人々が感じる何かがあると確信しています。しかし、作品を作る際に、それが何であるかを予測したり、先回りしたりすることは決してしません。
人が5つの異なる反応を示したとしても、それは彼ら自身のことについて語っているに過ぎません。そして、それは明らかに、作品があなたに示唆するもの、そして、あなたがもたらすものなのです。作品に自分自身が触れ、その組み合わせが作品を見る体験を構成するのです。
>>時間は戻せない。そこには“遅れ”が生じる。だからこそ時間についての考察は時間を巻き戻して逆回転にとらえ直すしかない。時間をあらわす術として絵画を“積層あるいは堆積された平面〈記憶〉”と仮定すれば、わたし〈たち〉が見ている現実もほんの一部でしかないことに気づかされる。
”把捉的な時間性”を可逆的に遡行する“歴史という経緯”への抵抗と一端はみなす想像力さえ関与すれば、その先を予測、希望を持つことも…。そのための努力を、ときに何らかのリスク回避へつなげることも可能になるのかもしれない。

《Fruits and Porcelain》2024 西村有
>> 主観性を描く概念とは対峙する?!多層的〈多視点〉という感覚…。

https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1831
《40声のモテット》2001年 ジャネット・カーディフ
>>個々の声〈スピーカー〉へ近づき、聴こうとすれば、各々のパート、役割、緊張感、その状況自体をあらわしていることに気づかされる。重層的な音の重なり合い、そこここの一体感は、空間として溶け合うかのような現象、幻想も抱かせるかのよう…。