mitsuhiro yamagiwa

  

 作品は、芸術家の創造行為と観賞者の感性的把捉の両方から決定づけられるのだが、その二重性が美学史全体を横切っている。さらに、美学の思弁的中枢とその根本的な矛盾がおそらく探し求められるのも、まさしくこの二重性においてなのである。

ある限界を超えた知性が、愚かさを必要とするようにみえるのと同様に、良い趣味は、ある洗練度をいったん超えてしまうと、もはや悪趣味なしですますことができなくなるといえるだろう。暇つぶしの芸術や文学の存在は、今日、もっぱら大衆社会に関係づけられており、われわれはこの社会を、十九世紀後半におけるその最初の勃興の証言者だったインテリ層の心的条件に照らして思い描くのが常である。

軽蔑しない者は、正当に評価することもできない。ある種の美的な悪意が調和のとれた教養の本質的な要素なのだ」。

趣味は、唯一の自己確信であり、唯一の自己意識である。しかし、この確信は、純然たる無であり、彼の個性は絶対的な没個性である。

自分とは他なるものに依存することを余儀なくされながら、しかし、あらゆる精神的な内容や規定がすでに廃棄されてしまっている以上、この他なるもののなかにはいかなる本質も見出されないのだ。

芸術作品はまさに、カントが言ったように「完全に認識されたとしても、それでもまだ制作されえないもの」だからである。

対自存在はむしろ自己喪失であり、自己疎外はむしろ自己保存である。したがって、ここで起きていることは、〔あらゆる契機が普遍的な正義をたがいに行使しあい、〕それぞれの契機が、おのずから自己を疎外するとともに、自己をその対立物と思いこみ、そのようにしてこれを倒錯させるのである。

ついに芸術作品にもっとも確かな現実性が保証されたと考えられるのだが、それはつかもうとすれば後退するため、われわれの手にはただ空虚が残されるのみなのである。

芸術家の主観性はいたって直接的に素材と同一視されていた。素材はただ芸術家だけでなく、その同類にとっても、意識のもっとも内的な真実を形成していたのである。したがって、価値それ自体として芸術を語るということは考えられなかったし、完成された芸術作品を前にして、ある美的関与性について語りうるなどとは、まったく思いもよらないことだった。

芸術家は、素材とそれにふさわしい形式とを、彼自身の存在の本質として直接的に自己のうちにもっている。それは芸術家が思い浮かべるものなのではなく、芸術家自身にほかならないのである。それゆえ、この真に本質的なものを客観化し、生き生きと自己のうちから表現し、外に向かって形成することが、芸術家の唯一の仕事である。

芸術はいまや絶対的自由であり、自己のなかに固有の目的と固有の土台を追求する。そして実質的な意味においていかなる内容も必要としない。なぜなら、芸術は自己の深淵にめまいを覚えることで自己を測ることだけしかできないからである。他のいかなる内容もーー芸術それ自体を除いてーーもはや芸術家にとって直接に自己意識の本質にはなりえないし、芸術にそれを表象する必要性も吹きこみもしない。

観賞者がともかくも芸術作品のなかに見つけられるものは、いまや、せいぜいのところ美の表現に媒介されたものである。

■ 趣味の誕生は「純粋な教養」の絶対的な分裂と一致する。つまり、観賞者は芸術作品のうちに「他者」としての「自己」、自己外存在としての固有の対自存在を見出すのである。そして観賞者は、芸術作品の行為における純粋な創造的主観性のうちに、一定の内容や、自己自身の存在の具体的基準を見出すことはけっしてなく、ただ彼自身の「自我」を絶対的な異化の形式において見出すにすぎない。観賞者は、この分裂の内部でしかみずからを把握することはできないのである。

近代人にとって芸術作品とは、もはや魂を恍惚や聖なる恐怖へと誘う神聖なるものの具現ではなく、みずからの批判的趣味を始動させるための特権的な機会なのである。批判的趣味とは、われわれにとって実際のところ、何らかのかたちで芸術それ自体よりも価値があるとまでは言えないにしても、少なくとも同じくらい本質的な要求にたしかに応える、芸術についての判断なのである。
 このことはわれわれにとってごく自然で親しい経験となった。それゆえ、芸術作品を前にしてまず最初に、それは本当に芸術なのか、むしろ似非芸術あるいは非芸術ではないのかと、ほとんどそれと意識することなしに案じるときにも、われわれは美的判断のメカニズムについて自問しようと思いつくことはない。

□ 美の決定が純粋に否定的なやり方で判断のなかに特徴づけられているということである。周知のように、カントは超越論的分析論の手本にならい、美的判断の四つの本質的特徴を次々に明示しつつ、美を四つの契機において定義している。第一の定義によると、「趣味とはある対象やある表象の型を、いかなる関心もなしに、快もしくは不快によって判断する能力である。そのような快の対象を美しいものと呼ぶ」(第五節)。第二の定義は「美しいものとは、概念ぬきに普遍的快の対象として表象されるものである」ことを明らかにする(第六節)。第三の定義では「美とは、ある目的の表象なしに合目的性が知覚されるかぎりにおいて、対象の合目的性の形式である」(第十七節)。第四の定義は「美しいものとは、概念ぬきに必然的な快の対象として認められるものである」(第二十二節)と付け加えている。
 
 □ 関心なき快、概念なき普遍性、目的なき合目的性、規範なき規範性)

つまり、「事物の〈真の存在〉に与えられてきた諸特徴は、非存在の、〈無〉の諸特徴である」ということである。それゆえ、■ 美的判断が美とは何かということを決定しようと試みるたびに、その手にとらえられるのは美ではなくて、美の影であるように思われる。あたかもそれは、芸術が何であるかというよりも、芸術が何でないかということ、つまり芸術というよりも非芸術こそが美的判断の対象であるかのごとくだ。

美的判断という道具は、困惑させるようなパラドクスにわれわれを直面させる。この道具は、われわれが芸術作品を理解するためにはそれなしですますことができないものであるにもかかわらず、われわれを作品の現実に入りこませることはない。それだけではなく、作品の現実以外の何ものかへとわれわれをたえず送り返しつつ、この現実を純粋かつ単純な無として提示するのである。複雑でありながら整然とした否定神学にも似て、あらゆるところで批評は包囲不可能なものを包囲しようとつとめる。

批判的判断は芸術を芸術のように考える、と。こう理解するならば、この判断はいたるところでたえず芸術をその影のなかに浸し、芸術を非芸術のように考えるということになる。そして、「美の領土」という地平を至高の価値として支配するのは、この芸術、すなわち純粋な影なのである。さらに、美的判断の根拠についてが自問しないかぎり、おそらくわれわれはこの地平から抜けでることはできないだろう。

われわれの美的理解の地平において、芸術作品は一種のエネルギー減損の法則に従属している。

ある人物像、つまり近代の批評家という人物像が創出された。その唯一の存在理由と独占的な役割とは、美的判断を行使するということである。

芸術家が、その世界観や信仰とストレートな同一性によって結びつき、彼の主観性と芸術作品の内容とが統一されていた時代、そしてそれと同じように、観賞者もまた、みずからの意識のもっとも高い真実、つまり神聖なるものを芸術作品のなかに直接見出すことができた時代は、もはや過去のことである。

観賞者にとって、芸術作品において本質をなすものとは、逆に自分とはむしろ無縁で本質を欠いたものにほかならない、ということである。その一方で、観賞者が自分自身で作品のなかに発見する何か、すなわち、そこに見つけられる内容が、真理ーー作品それ自体において必要な表現を見出している真理ーーとして彼の前に姿を現わすことはもはやない。むしろそれは、思惟する主体として観賞者がもはや完全に自覚しており、それゆえ観賞者自身が表現へと導きうると正当に信じることができる何ものかである。

芸術経験はいまや絶対的な分裂という経験以外の何ものでもない。「同一人格が主語でも述語でもある同一判断」はまた、必然的に(ラモーにその分裂の弁証法を押しつけつつ、ヘーゲルが理解していたように)、「無限判断でもある。というのも、この人格は完全に二分されており、主語と述語は、一切の関わりも必然的な統一もない、たがいにまったく無関心な存在なのだから」。

美的判断はこうした純粋な分裂であり、根拠の欠如である。それはけっして陸地に到達することなく、無限に形式の海を漂流するのである。

つまり、観賞者は自己の分裂を分裂させ、自己の否定を否定し、自身の抹消されたものを抹消しなければならないのである。

観賞者とは、他者であるという絶対的な意志

■ 美術館が支持する場とは、この不断にして絶対的な自己と他者との否定であり、そこでは分裂が一ー隣にその調停を見出し、観賞者は自己を否定しながら自己を容認する。次の瞬間にふたたび新たな否定のなかに浸かるために。無気味なこの深淵のなかで、芸術についてのわれわれの美的理解は根拠を得るのである。われわれの社会におけるそうした美的理解の肯定的な価値、そして美的特徴の天空におけるその形而上的な実質は、この無の否定という労苦ーー自己無化の周囲をぎごちなく回転しているーーのうえで休息するのである。■ 影のほうへと貫徹させる、この後ろ向きの歩みにおいてのみ、作品は、合理的に研究可能で親密な次元をわれわれのために取り戻すのである。

「ひとつ、ふたつと次元を拡大した(キッチュ)は、より耐えられるものになり、ますます〈キッチェ〉ではなくなってくるのではないのだろうか」。そして、ムージルは奇妙な数学的計算によって「キッチュ」と芸術の関係を暴こうと試み、両者はまさしく同じもののように思われるという結論に達したのだった。

■ レディ・メイドにおいては創造 – 形式原理の異質性が、力ずくで芸術の領域に押しこめられた非芸術的な対象の異化に取って替えられたが、それを前にしたとき、批判的判断はいわば直接的に自分自身と、もっと正確に言うと、反転した自己のイメージと対決することになるのである。批判的判断が非芸術へと引き戻さねばならないものは、現にそれ自体ですでに非芸術なのであり、その判断の運用はそれゆえ単純な身分証明のなかで枯渇してしまうのである。

自己の影という意識に目覚めた芸術は、このように直接的に自己のうちに自己の否定を包含し、芸術を批評から分かつ隔たりを埋めながら、それ自体が芸術と芸術の影との「ロゴス」、すなわち芸術と芸術をめぐる批判的省察となるのである。

現に、われわれはもはや芸術作品を審美的に判断できる状態にはないのに対して、自然についてのわれわれの理解は曖昧になり、その一方で自然の理解に人間的な要素が介在してくるため、われわれがある風景を前にしたときには、それが審美的に美しいか醜いかを自問しつつ、おのずと風景をその影によって測ることになるのである。

■ 芸術がもはや、先行する時代と民衆が芸術のなかに探し求め、芸術のなかにだけ見出してきた精神的要求の満足をもたらさないことは確かである……これらのことすべてにより、芸術はその至高の目的に関するかぎり、われわれにとって過去にとどまる……われわれにとって芸術は、そこに真理が存在する最上の方法としての価値ではもはやない……ゆえに、芸術がなおも高まり完全になるのを望むことはできるが、その形式は精神の至高の要求であることをやめた」。

いまや芸術家は、自分が生みだした作品の素材についても形式についても白紙状態 タブラ・ラサとなり、いかなる内容も彼自身の意識の内奥とはただちに同一化しないことを露にしている。 
 
実際のところ芸術家が作品のなかで試そうとするのは、芸術的主観性が絶対的本質であって、素材はすべてそれとは無関係だということである。だが、あらゆる内容から切り離された純粋な創造・形式原理とは、あらゆる内容を無化し解体することで自己を超越し実現しようとたえずつとめている抽象的な絶対的非本質性である。もし、芸術家がある一定の内容や信条のなかに自己確信を探し求めるとすれば、その芸術家は虚構のなかにいる。なぜなら、彼は純粋な芸術的主観性があらゆる事物の本質だということを知っているからだ。しかし、もしこの純粋な芸術的主観性のなかに固有の現実を探し求めるとすれば、まさに非本質的なもののなかに固有の本質を、形式にすぎないもののなかに固有の内容を見つけねばならないというパラドキシカルな状態に陥る。それゆえ、その芸術家が置かれた状態とは根本的な分裂である。そして、この分裂を除いて、彼のなかにあるすべては虚構なのである。
 創造-形式原理の超越に直面した芸術家は、みずからの暴力に身を委ねることで、あらゆる内容の総体的な衰退のなか、この原理を新たな内容として体験しようと求めることができる。そして、自身の分裂をもって根本的な経験となし、この経験から出発してはじめて、人間のある新しい姿勢が可能になるのである。

芸術に以後可能なのは、詩的自我のもつ否定の力を表象することだけだということである。詩的自我は、否定によって、限りない分裂のなかでたえず自己の上へと高まっていく。

ボードレールが言うには、「笑いは、自己の優越という観念から生じる」、つまり自己についての芸術家の超越から生じるのである。彼が続けるには、正確に言うと笑いは古代には無視され、われわれの時代では抑制されている。いまではあらゆる芸術現象は芸術家のなかの「永遠の二重性、つまり同時に自己であり他者である能力の存在に基づいている……二重であり、■ みずからの二重の性質に由来する現象をけっして無視しないという条件こそが芸術家を芸術家たらしめる」。

自己の創造の無のうえに神のごとく高められた芸術的主体は、否定の原理それ自体を破壊しつつ、いまや否定の作品を完成する。芸術家はみずからを破壊する神である。こうしたイロニーの運命を定義して、ヘーゲルは「□ 自己を無にする無〔ein Nichtiges, ein sich Vernichtendes]」という表現を用いている。

■ 中味のない芸術的主観性とはいまや否定の純粋な力であり、この力はいたる場所であらゆる瞬間に、自己の純粋な意識のなかに映しだされる絶対的自由として、ひたすら自分自身だけを主張する。あらゆる内容がこの否定力のなかに落ちこむのと同じように、作品の具体的な空間はこの力のなかに消える。

■ 意識の分裂にとらわれても、芸術は死なない。それどころか、まさに死ぬことの不可能性のなかにいる。

自己を疎外できず、それでも永遠に自己とは異質なものでありながら、芸術はみずからの法を欲し、なおも探し求める。しかし、現実世界とのつながりがぼやけたために、芸術はいたるところであらゆる機会にまさしく無のような現実を求める。□ 芸術とは「無にするもの」であり、けっして肯定の作品に至ることができないまま、芸術そのもののあらゆる内容を横断する。なぜなら、芸術はもはやいかなる内容とも同一化することはできないからである。そして芸術が純粋な否定の力となったため、その本質を支配するのはニヒリズムである。芸術とニヒリズムの絆はそれゆえ、審美主義とデカダンス主義の詩学に動かされている領域よりも言い知れぬほど奥深い領域に達する。形而上的な行程の極点に到選した西洋芸術の思ってもいなかった土台から出発し、芸術はみずからの領域を伸長する。

■ 非存在から存在へと移行することとは、ある形象をとり、ある形式を帯びることである、という意味において。というのも、生産されるものが存在へと入るのは、まさしく形式のなかにおいてであり、形式から出発してだからである。

独創性が意味するものとは、根源との近似性である。みずからの根源、つまり形式のアルケーとの個別的つながりを保持するがゆえに、芸術作品は独創的なものである。

独創性というドグマは、芸術家の条件を文字どおり破裂させた。個々の芸術家の人格が生きた統一のうちに見出され、それゆえ、この共通の型という束縛のなかで彼らが独特の相貌を帯びるような共通の場を何らかのかたちで形成していたすべてのものは、軽蔑的な意味での共通の平凡な場となり、耐えがたい障害となったのである。批評という近代の悪魔に忍びこまれた芸術家は、この障害から自由になるか、さもなくば、それによって滅びるかしかないのだ。

□ 芸術作品は少なくともこれまでは、作品の規則の測定や、美を生みだすための他の方法的手続きによってよりも、作品が引き起こす印象によって判断されてきた。まったくのところ現代の詩には、とりわけ流派や職人的特徴が欠けている。

レディ・メイドにおいて観賞者は技術のステータスにしたがって存在する物体と直面させられつつも、この物体は不可解にも、美的真正性というある種の潜在力を帯びて現われでる。これに対して、ポップ・アートでは観賞者は、美的潜在力を剥ぎとられて工業製品のステータスをパラドキシカルに引き受けたようにみえる芸術作品の前にいるのである。

ポイエーシスがみずからの力を実現するのは、作品においてだからである。そして、その運命ゆえに、ポイエーシスはいまやみずからの力をただ剥奪としてのみ振りまくのである(だが、この剥奪もまた、現実には詩の最後の恩恵であり、もっとも完結し、意味を担うものである。 というのも、そのなかで無それ自体が存在へと呼びだされるからである)。

あたかも利用可能性という特徴がついには形式的側面を覆い隠すかのように。

■ 「〜への利用可能性」という様態のもとにあるかぎり、また単なる美的享受への利用可能性としての芸術作品という美的ステータスのもとで多少なりとも意識的に戯れているかぎりにおいて、開かれた作品が成立させるのは、美学の超克ではなく、ただみずからの完結の一形式にすぎない。そして、否定的にしか美学の彼岸に合図を送ることはできないのである。

本来の意味で美的快にも消費にも身を捧げることがないために、両者の場合には利用可能性と可能態が無に向けられ、この方法によって真に目的のなかで身を処することができると言えるのである。
 ■ 無への利用可能性は、いまだ作品ではないものの、実際には何らかのかたちで否定的存在であり、作品内存在の影である。すなわち、エネルゲイアであり、作品である。そして、それはそのようなものとして、われわれの時代の芸術意識が芸術作品の疎外された本質に向けて表明した、いっそう切迫した批判的訴えを形成するのである。

美学が芸術作品の解釈を基礎づける両極のうち片方の極ーー意志や創造力という意味での天分の極ーーだけを過度に展開させるかぎり、美学批判は美学の内部にとどまりつづけるのである。しかしながら、ギリシア人がポイエーシスとプラクシスを区別することによって意味しようとしたものは、まさしく、ポイエーシスの本質は意志の表現とは無縁であるということだ(■ 意志にとっては、芸術はけっして必要不可欠なものではない)。むしろポイエーシスの本質は、真理を生産すること、およびその結果として、人間の実在や行動へと世界を開示することにある。

現に、芸術作品は、ある行為の結果でも活動の実現でもなく、作品を現存へと生- 産した原理とは実質的に異なる何かである。それゆえ、芸術が美的次元に参入しうるのは、ひとえに芸術そのものが生-産の領域、つまりポイエーシスの領域から離脱し、プラクシスの領域へと入りこんでいるかぎりにおいてなのである。

プラクシスという語は、「横切る」に由来し、(向こうに)、(通過、門)、(限界)といった単語と語源的に結びついている。このプラクシスという語には、「横断して行くこと」、「限界まで行く通過」という意味がある。

動物は心象や記憶をもっているが、経験は具えてないのに対して、かたや人間は経験能力があり、この経験のおかげで学問と技術を具える。さらに、アリストテレスは続けている。経験は技芸に酷似してはいるが、実質的にはむしろ技芸とは異なっている。

理性は意志なくしては運動しない。なぜなら決定する意欲は、一種の意志であり、われわれが推論に即して運動するときには意欲によって運動してもいるのだから……。それゆえ運動する魂の力が意志であることは明らかである」(『魂について』)。

人間に実践能力があるということは、人間がその行動を意志すること、そして、行動を意志することによってそれを極限に至るまで横断させることを意味する。いうならば実践とは、意志(意志された行動)に衝き動かされることによって行動の限界にまで横断して行くことにほかならないのである。
 
□ 意志は動き動かされるものなのだ。しかも意志それ自体は運動である。つまり意志は、単に実践を衝き動かす原理にとどまっているわけでもないし、実践が運動を開始する起点でもない。意志は、行動を横断し、現存への入口に到達するまで最初から行動を支配する。つまり、行動を横断することによって、みずから運動し、みずからの極限にまで至っているのは、意志のほうなのである。実践とは、それ自体の循環をその限界にまで横断し通り抜ける意志にほかならない。すなわち、■ プラクシスとは、意志であり欲求である。

シェリングいわく、「元来、広義の意味での精神は、理論的な性格を帯びていない……。もともと精神とはむしろ意志なのだ。意志のためだけの意志、なにがしかを意志するのではなく、意志そのものだけを意志する意志である」。

□ われわれは否定的であることを欲するがゆえに否定的である。ーーわれわれが肯定的になればなるほど、われわれをとりまく世界は否定的になるだろう。ーー

■ すなわち、「身体は、世界を形成し変革するための道具である。したがってわれわれは、われわれの身体をして、万能の器官たらしめねばならない。われわれの道具を改良することは、世界を変革することを意味する」。

理論と実践、精神と自然の統一が果たされる「詩」の原理とは、意志であり、なにかの意志ではなく、絶対的な意志、シェリングが根源的な深淵を規定していたような意味における、意志の意志なのである。
 ■ 「私が知っている私は、私が意志するとおりの私であり、私が意志する私は、私が知っているとおりの私であるーーというのも私は私の意志を意志するからであり、絶対的なしかたで意志するからである。結果として、知と意志は私のうちで完全に統合されている」。

動物は、直接その生命活動と一体化したものであり、その生命活動そのものであるのに対して、人間は、生命活動と取り違えられることはなく、生命活動をその実在のための手段とする。人間は、一方的なやり方ではなく、一般的なやり方で生産する。「まさにこれゆえにのみ人間は、ひとつの類に属する存在〔Gattungswesen]なのである」。実践は、人間をその本来の存在において構成する。つまり、実践は人間をひとつの類存在たらしめる。それゆえ、生産の性格とは、ひとつの類たりうる存在として人間を構成し、人間にひとつの類(Gattung)をあてがうことなのである。だが、すぐ後でマルクスはこう付け加えている。「むしろ、こういったほうが適当だろう。■ それ(人間)は、意識をもった存在である。すなわち、人間にとって、人間本来の生は、まさに人間がひとつの類に属する存在であるかぎりにおいてひとつの客体なのである」。とするなら人間は、生産者であるかぎりにおいて類存在ではないことになるだろう。というよりもむしろ逆に、類的存在という性質のほうが人間をして生産者たらしめていると言うべきかもしれない。この本質的な両義性は、マルクスの次のような記述によって再確認されることになる。■ 「客観世界の実践的創造、すなわち無機的自然の加工は、人間が類存在であることの新たなる確証である」。しかしながら他方では、「客観世界の加工のうちでこそまさしく人間は、はじめでみずからが類存在であることを現実に感じるのである」。

労働の客体は、類としての生の客体化にほかならない」。そしてまた疎外された労働は、人間からその生産の客体を搾取するがゆえに、人間の類としての生、現実の人間がもつ類としての実質的な客体性〔Gattungsgegenstandlichkeit)をも、人間から搾取するのである。

「人類が存在するかぎり」という表現は、「人間たちが連続的に生成するかぎり」ということを意味することになる。

類は、それに属する個体の(「統一を保ちまとめるもの」という能動的な意味とともに、「みずからの統一を保ち連続するもの」という再帰的な意味においても)出生として共立するもの=根源の大陸(Il con-tinente originale〕なのである。

「人間は類存在である〔……〕なぜなら人間は、現存し生きている類と同様、おのれ自身に対しても行動するからである」と、そしてさらに「人間にとってみずからの類的存在が疎外されてしまったという命題が意味するのは、ある人間が別の人間と疎遠になったということであり、かつ、各々の人間が人間存在から疎外されたということなのである」と。

□ 情熱、情念(die Leidenschaft,die Passion〕は、力強く自己の客体を目指す人間の本質的な力である」。

人間の生産活動は、その根本では、生命力、精力的な欲動や緊張、情念である。かくして、実践の本質、人間的かつ歴史的存在としての人間が有する類的特性の本質は、自然存在としての人間という自然科学的なコノテーションに後退する。生きた人間の、生産する生体の根源的大陸は意志である。人間の生産とは実践のことなのだ。「人間は、一般的なやり方で生産する」。

■ 芸術の「価値」は、「あらゆる価値の脱価値化」という観点からしか評価されえないのである。ニーチェにとって、このあらゆる価値の脱価値化ーーこれこそがニヒリズムの根幹をなす(『権力への意志』アフォリズム22)ーーには、互いに対立しあう二つの意味がある(「権力への意志』アフォリズム22)。

□ 芸術を介して、眼と手、そしてとりわけ良識がわれわれに与えられているおかげで、われわれ自身でこうした美的現象をつくりだすことができるのである」。こういった次元で理解するならば、芸術とは「生を無化しようとするあらゆる意志に対して向けられるアンチテーゼの力であり、アンチ゠キリスト教的、アンチ=仏教的、すぐれてアンチ゠ニヒリズム的な原理にほかならない」(「権力への意志」アフォリズム83)。

宇宙を有機体と呼ぶ連中よろしく、われわれは、地殻の上に立つわれわれだけが知覚する、口では言えないほどに派生的で遅ればせでまばらで偶発的なものを、本質的なもの、普遍的なもの、永遠的なものとして曲解すべきなのか?

■ 目的も意味もないが、だからといって無に終わるわけでもない、不可避的に回帰していく存在、すなわち永劫回帰という形式で。これこそが永遠の無(無意味)というニヒリズムの極限的形式なのだ」(「権力への意志」アフォリズム55)。

「われわれは、芸術作品をたえず新たに経験したいのだ。だからわれわれは、生の隅々にわたってこうした願望を胸に抱けるように生を造形しなければならないのだ!これが主たる思いつきだ!これまで存在したあらゆるものの反復という理論がようやく公にされるのはいちばん最後、つまり、幾度もくりかえしこの理論という太陽の下で花を咲かせることができるものを創造しようとする傾向が、いったん心に刻みこまれてからの話なのだ」。芸術をこうした根源的次元で考察したからこそ、ニーチェは「芸術は真理よりもいっそう価値がある」(『権力への意志』アフォリズム853)のであり、「われわれは真理に対して屈服しないために芸術をもっている」(『権力への意志」アフォリズム882)と言いえたのである。

自然の救済という「最大の重荷」をみずからに抱えこんだ人間とは、芸術の人である。つまり、ぎりぎりにまで張りつめた創造原理から出発して、形式を要求する無を自己のうちで経験し、この経験を、生に向けられた礼讃の極みに、「永遠にわたる生成の歓喜、それ自体として無化の歓喜をもたらすような歓喜」という意味での仮象の讃美に、転倒させるような人間なのである。

□ 自己の無を徹底的に横断してゆく芸術の本質のうちでは、意志が支配している。芸術は、権力への意志の永遠の自己生成である。そういうものとして芸術は、芸術家の活動からも観賞者の感性からも同じように引き離され、普遍的生成の根本的な特徴として提示されることになるのである。

■ 批評や言語学において構造が探究されればされるほど、逆説的にも、根源的な意味での構造はますます茫漠としたものとなり、背景へと後退してゆくのである。

芸術作品が問題となるかぎりにおいて、形式という美学観念は、構造主義批評がー一質料〔素材〕と形相〔形式〕という芸術作品の美学-形而上学的な規定に依存しつづけ、したがって芸術作品をアイステーシスの対象であると同時に根源的な原理として想い描いている点でーーうまく回避することはできても乗り越えることはできない最後の暗礁なのである。

リズムはまた、「尺度=拍子」でもあり、現存における本来的な場=留に万物を一致=調律させるものというギリシア的な意味でのロゴス(理性)でもある。このような本質的な次元に到達するからこそ、また、このような根源的な意味での「尺度=拍子」であるからこそ、はじめてリズムは、人間の経験にひとつの領域を開示することができる。

芸術作品の本質そのものが俎上に載せられる次元へとリズムを位置づけることではじめて、作品そのものが合理的で必然的な構造であると同時に関心なき純然たる遊戯でもあるといった両義性が可能となる。そして、この両義的な空間では、計算と遊戯がたがいに交錯しているようにみえるのである。

「リズム」という語句は、ギリシア語の「流れ去る、過ぎ行く」に由来する。流れ去り過ぎ行くものは、時間的次元で流れ過ぎ、時系列に沿って流れてゆく。一般的なイメージでは、時間とは実際、純然たる流れであり、無限の線に沿って隣間瞬間がたえず継起してゆくことにほかならない。すでにアリストテレスは、時間を運動量=運動の数と考え、瞬間を点と解釈することによって、数量の無限継起という一次元的な領域に時間を位置づけている。

ある芸術作品を前にするとき、あるいは現存の光に包まれた風景を前にするとき、われわれは、時間が中断されたと感じる。それは、あたかも突然いっそう根源的な時間のうちに突き落とされたかのようである。未来から過去のうちへと消えてゆく瞬間の不断の流れのうちには中断、断絶があって、この断絶や中断こそまさに、特有のステータス、すなわち、われわれが眼の前にする芸術作品や風景に固有の現在様態を与え、そのヴェールを剥ぎとるものにほかならない。われわれは、あたかも何かの前で中断したままに引きとめられているかのようだ。だが、この引きとめられているというあり方はまた、いっそう根源的な次元において、外にあること、つまり、脱存=法悦〔ek-statu〕でもあるのだ。

こうしたーー与えておきながら同時に与えたものを覆い隠すーー保留は、ギリシア語ではエボケー〔=休止〕といわれる。この語の派生源であるエペコーという動詞には、実際に二重の意味がある。つまり、「引きとめる、宙吊りにする」という意味とともに「さしのべる、さしだす、提供する」という意味をもっているのである。時間のいっそう根源的な次元のヴェールを剥ぎとるとともに、それを瞬間の一次元的な逃亡のうちに覆いすリズムについてすこし前で述べたことを考えあわせるならば、われわれはおそらく、一見しただけてはかなり強引に思えるかもしれないがーーエボケーをリズムと翻訳し、「リズムとはエボケーであり、与えられたものであり、保留である」ということができるだろう。とはいえエペコーというギリシアの動詞には、先の二つの語義を結びつけるような第三の意味がある。つまり、「現前している、支配する、保有する」という意味での存在するという語義である。

詩のエポケーにおいて人間がみずからの世界内存在を本質的な条件として経験するからこそ、はじめて世界は、人間の行為や実在に向かって開示される。もっとも無気味な力や現存への生-産を包含するからこそ、はじめて人間は実践や意志による自由活動を包含することができる。さらにポイエーシス的行為のうちで、時間のいっそう根源的な次元に近づくことではじめて、人間は、おのれの過去とおのれの未来とにたえずかかわるような歴史的存在となるのである。

芸術の贈与は、人間の根源的な位置そのものの贈与であるがゆえに、もっとも根源的な贈与である。芸術作品は、文化的な「価値」でも、観賞者のアイステーシスにとっての特権的な対象でもなく、さらにいえば、形式原理の絶対的な創造力ですらない。むしろ芸術作品とは、歴史と時間におけるその根源的な水準へと人間をたえず参入させるものであるがゆえに、いっそう本質的な次元に位置づけられるものなのである。

芸術が建築的であるということ。このことが意味するのは、語源に即して言えば、芸術、ポイエーシスが始源の生-産であり、芸術は人間の根源的空間を与えるもの、とりわけ「建築的なもの」だ、ということである。■ あらゆる神話伝承の体系に見られる儀式や祭典を挙行する目的とは、世俗的な時間の同質性を中断することなのであり、神話の根源的な時間を再現前化させることによって、人間は、神々と同じ時間を共有するものとして再生成し、あらためて創世の始源的次元に達することができるのである。芸術作品においてもまたこれと同じように、直線的な時間の連続体は分断され、人間は、過去と未来のあいだに、自己の現在=現在する空間を見出すのである。

ある芸術作品を見つめることは、より根源的な時間へと企投されること、与えつつ引きとめるリズムのエポケー的な開示における脱存=法悦を意味する。人間と芸術作品の関係をめぐるこの状況から出発してはじめて、いかにしてこの関係がもしそれが真の関係であるとすればーー人間にとっての最高の使命でもあるのかが理解されうるのである。つまり、この最高の使命は、人間を真理のうちに引きとどめ、地上における人間の居住にその根源的なステータスを与えているのである。芸術作品を経験するとき、人間は、真理のうちに、いいかえればポイエーシス的行為においてようやくヴェールを制がされる始源のうちに直立しているのである。この使命、つまり、リズムのエポケーへのこの企投のうちに、芸術家や観賞者は、両者の本質的な連帯と共通の土壌とを見出すのである。

逆に芸術作品が美的享受に供され、その形式的な局面が評価され分析されるとしたら、それは、いまだ作品の本質的な構造に接近するのとは程遠いもの、つまり、芸術作品において与えられ保留されている始源からははるかに遠いものなのである。それゆえ美学は、芸術を芸術本来のステータスに即して考察することができないのでありーーこのステータスが美的=感性的な観点に囚われつづけているかぎりーー芸術の本質は人間には閉ざされたままなのである。

□ 芸術作品とともに人間が喪失しかけているものとは、実際、それがどれほど貴重なものであるとしても、単なる文化財ではないし、また創造のエネルギーの特権的な表現ですらない。そうではなく、むしろ人間の世界という空間そのもの、そこでしか人間が人間として自己を見出すことができないような空間、そこでしか行為し認識することができないような空間をこそ、人間は失いかけているのである。

■ ベンヤミンによれば、引用固有の力は、実のところ、過去を伝承し蘇生させるその能力から生まれるのではなく、むしろ逆に、「邪魔者を一掃し、コンテクストから引き剥がす、その破壊的な」力から生じるのである。過去の断片をむりやりその歴史的なコンテクストから切り離す引用は、真正な証言という性格をこの断片から一挙に奪することによって、まぎれもない攻撃力となる異化のポテンシャルをこれに付与する。生をかけて引用だけで構成される本を書こうとしたベンヤミンは、引用が召喚する権威が、まさに文化史上の状況からある種のテクストに帰されるような権威の破壊に基づいていることを理解していた。すなわち、ベンヤミンが『歴史哲学テーゼ』のひとつ〔第三テーゼ〕で、最後の審判の日に「議事録にのぼる引用」を明確に定義するとき、□ 引用のになう真理の使命とは、生きたコンテクストから異化された仮象の一回性という機能なのである。その異化の刹那に、ほんの一回だけ現われるイメージのなかでのみ、あたかもある記憶の危機の瞬間に思いがけなく脳裡をよぎるように、過去は定着されるのである。

■ 美の顕現が生じる束の間の瞬間における過去の生存は、結局のところ、芸術作品によって実現される異化であり、かたや、この異化は、芸術作品の伝承可能性の破壊、すなわち伝統の破壊の尺度にほかならないからである。

過去と現在、古いものと新しいもののあいだに断絶はない。なぜならあらゆる対象は、その対象のうちに表現を見出してきた信念体系や概念体系をたえず十全に伝承する。正確を期するならば、むしろこの種の体系では、伝承に依存しないような文化については語りえない。というのも、伝承と分離した対象を構成するような、またその実在自体がひとつの価値であるような、諸観念や諸規則の遺産の蓄積は、存在しないからである。

むしろ、伝統の喪失が意味するのは、過去がその伝承可能性を喪失したということであり、以後、過去との関係を結ぶ新しい方法が見つかるまで、過去は、ひたすら累積の対象となるのである。こうした状況で人間は、みずからの文化遺産をいうなればひとつ残らず保存する。というより、この文化遺産の価値はめまぐるしく増加する。だが、人間は、文化遺産から行為や精神的な慰安の試金石を導きだす可能性を失うとともに、自分自身の起源や宿命について自問することで、過去と未来のあいだの関係として現在を創設するために与えられた唯一の具体的な場も失ってしまう。実際、この具体的な場こそ、過去の伝承可能性である。

この時代にあっては、いわゆる巨大アーカイヴのなかに古いものを無限に累積させるか、さもなければ、この同じ媒体をつかって、古いものの伝承をたすけるような異化作用を生じさせるかする以外に、古いものと新しいもののあいだにもはや何のつながりもないのである。不明瞭な命令や山積の仕事によって村にのしかかる、カフカの小説における城のように、文化の累積は、生きた意味を失って、まったく自覚できない脅威として人間にのしかかってくる。古いものと新しいもの、過去と未来のあいだの空隙に宙吊りにされた人間は、時間のなかへと投げこまれる。まるで、人間の手をたえずすり抜けながらも先へ先へと彼を導いていく未知なるもののなかへと投げこまれるように。だが人間は、その時間のなかにけっして自分の確かな立脚点を見出すことができないのだ。

「われわれが進歩と呼ぶもの、それはこの嵐なのだ」。

異化されたそのイメージにあって、過去は、真理を否定するというかぎりでのみ、みずからの真理を見出し、新しいものの認識は、古いものの非真理性においてのみ可能となる。芸術の天使は、美的な判断=審判の最後の日に現われて、実際のコンテクストの外で過去を引用する。

文化は、伝承可能性とともにみずからの真理の唯一の保証人を失い、絶え間なく累積していくみずからのナンセンスに脅かされる。だがその文化が、いまや芸術にみずからの保証を与えるのである。したがって芸術は、みずからの保証を失うことによってしか保証されえないものを保証する必要に迫られるようになる。

すでに伝統が解体し、もはや人間が過去と未来のあいだに現在という空間を見出すことができず、歴史の直線的な時間のなかに埋没している時代にあって、美学は、むしろ芸術の運命そのものなのである。その翼を進歩の嵐に絡めとられている歴史の天使と、時間を超越した領域に過去の廃墟を固定する美学の天使は、切り離すことができない。個人であれ集団であれ、人間が古いものと新しいもののあいだの軋轢を和解させる別の方法を発見しないかぎり、したがって自己の歴史性を自分のものとしないかぎり、この分裂をぎりぎりまで駆りたてずにはすまない美学を克服することは、ほとんど不可能であるように思われる。

「われわれが道と呼んでいるのは、われわれの躊躇にほかならない」。

ゴールがすでに現前するがためにそこへと至る道がない。だからこそ、遅ればせながらも伝承という課題そのものをメッセージとしてたずさえてくる使者の、不屈の粘り強さだけが、歴史的なあり方を体得する能力を喪失した人間に、その行為や意識を形成するための具体的な空間を送り返すことができる。

真理を眼前にした人間の遅れの原理を詩的な手続きに転じ、伝承可能性のために真理の保証を放棄することによって、芸術はふたたび、古いものと新しいもの、過去と未来のあいだの世界にたえず宙吊りにされた歴史的なあり方から脱することができる。そして過去と未来に挟まれた空間そのものも、自分の棲処 ディモーラの根源的な寸法を現在のうちに測定し、行為の意味をそのたびごとに再発見できるのだ。

原註

□ 作品のなかに入り込んで生きるためではなく、ただみずからのなかで作品を表象するために

□ 実際、人間は、みずからの歴史的条件をわがものにすることはできないのであって、だからこそ、ある意味で歴史のなかではたえず「自己の外に」いるのである。

□ アガンベンは言う。「〜なき〜」という言い回しが示しているように、ここで問題となっているのは、否定であり、不在であり、「無」の諸特徴である。つまり私たちは、(ニーチェもいみじくも見抜いていたように)否定の鋳型においてしか、あるいは「影」の様態においてしか美を、芸術を判断することができないのである。ここにもまた、アガンベンが前景化してみせようとする芸術の、困惑させるようなパラドクスが潜んでいる。したがって、美的判断という道具は、「われわれが芸術作品を理解するためにはそれなしですますことができないものであるにもかかわらず、われわれを作品の現実に入りこませることはない」。□ 芸術作品についてどれほど懇切丁寧で理路整然とした説明を批評家や歴史家たちから受けようとも(あるいは、そうであればあるほど)、作品それ自体からはむしろ遠ざかってしまうような印象を受けることがしばしばあるのも、実は、美的判断の根底にこうしたアポリアが潜んでいたからなのだ。
 それゆえまた、アガンベンによれば、批判的判断によって非芸術のリンボへと追いやられていた広大な(「悪趣味」の)領域が、ちょうど形式原則の優越と反比例するかのように、みずからの権利を要求するべく姿を現わしてきたーーキッチュ、レディ・メイド、ポップ・アートなどとしてーーのも偶然ではない。これら現代芸術は、固有の分裂を剥き出しに呈示しているのである。

二十世紀の芸術を、ポイエーシス(生-産)、アルケー(始源)とエイドス(形相)、デュナミス(可能態)とエネルゲイア(現実態)といった古代ギリシアの用語に関連づけることによって読み解こうとする。

□ 「芸術は死なない。それどころか、まさに死ぬこと、の不可能性のなかにいる」のだと。「芸術は死ぬのではなくて、自己を無にする無となって、自己よりも長く永遠に生き続ける」のである。ヘーゲルのテーゼの根源的な意味を問い直そうとするアガンベンは、かくして、分裂を体験した近代以後の芸術に支配的な否定性、ニヒリスティックでイロニックな自己言及性を見事に喝破してみせる。

□ アガンベンによれば、「中味のない人間」とは、とりもなおさず芸術家のことにほかならない。なぜか。芸術が自己を否定する否定性となり、自己を彼方へと送り返そうとする以上、芸術家に残されているのは、その否定の力を表象することであり、「限りない分裂のなかでたえず自己の上へと高まっていく」ということだけだからである。

□ 救済されるべき過去との、いま-このときゆえの出会いがあるということ、まさしくこの信念にこそ、アガンベンが過去のテクストにそのつど立ち向かう現代的な意義が潜んでいると言えるだろう。

□ 芸術であれ政治であれ、あるいは生そのものであれ、私たちが思考の照準を合わせなければならないのは、この場なき場であること、残余や境界であることを、アガンベンはいつも教えてくれているように思われるのである。

『中味のない人間』ジョルジョ・アガンベン/著 岡田温司・岡部宗吉・多賀健太郎/訳