| ルイジ・ギッリ『終わらない風景』
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遠近法が行き着く視線の先はわたし〈たち〉の興味が薄れゆく、フィジカルな限界、消失点でしかなく、その先は終わらない。作品集は『Luigi Ghiri Between the Lines』が集約してる感あり?かも!
“ギッリにとって写真とは、現実世界の複製ではなく、フレーミングされた「見られた」視覚的断片によって風景を作り出すための表現手段でした。彼はこの表現手段を通じて、通り過ぎる風景の中に現実とイメージの関係性を見出し、「在」と「不在」、外的世界と内的世界について思索を深めようとしたのです。”
〈展覧会メモ〉
I
オブジェクトとイメージ 1一反響し合うイメージ
1970年代から本格的に写真作品を制作し始めたルイジ・ギッリは、街を歩きながら偶然出会ったイメージの断片を収集し、作品を制作しました。ショーウィンドウや看板をはじめとする公共の場に「展示された」イメージを選び、多様なモチーフを拾い上げては、それらに象徴的な価値と、定式化できない複雑さを与えようとしたのです。
<初期作品)やくコダクローム)において、三次元の被写体を二次元の印画紙に移行させる際、ギッリの視線は常に複数の要素一たとえば絵葉書のラック、壁紙に描かれた木と実際の木、オレンジ色の壁にかけられた鏡に映る青い海と空などーを等価に捉え、一枚の写真の中でそれらのイメージを反響させ合います。そして、私たちが日常の中で優劣や意味づけを与え、無意識のうちに自らの視覚経験を固定化してしまっていることへの批評的なまなざしを向けているのです。
このシリーズの手法のことを、ギッリは、「フォトディスモンタージュ(脱構築された写真)」と呼んでいます。既存の視覚を解体し、再構築するという行為は、すでにこの世界に存在している巨大なフォトモンタージュ、すなわち現実世界に溢れるイメージに誠実に向き合うことでもあったのです。
Ⅱ
オブジェクトとイメージ 2ーイメージと記憶の交差
ルイジ・ギッリは、<F11、1/125、自然光)およびく静物)というシリーズによって、風景を通したイメージへの思索をますます拡張させていきました。
前者は絞り値やシャッタースピード、自然光といった写真技術をタイトルに示しつつ、地図や展示物を眺める人々を背後から捉えています。展示物や地図といった「見られている」対象、それを見つめる人物、その人物を背後から撮影するギッリ、そしてギッリによって撮影されたイメージを見つめる鑑賞者。その一連の視線の連鎖の中で、常にそれらは、「見る/見られる」の双方を含んでいることを浮き彫りにしています。
一方<静物)では、一枚の写真に写された複数のオブジェクト同士→たとえば、装飾として食器に描かれた風景とその上に置かれた双眼鏡一の関係性が、鑑賞者の記憶や想像と結びつき、新たな意味を生み出します。鑑賞者に、なぜそこにそれらがあるのか、それらは自分に何を訴えかけてこようとしているのか、自身の記憶や想像の中で思考を巡らせながら、さらなる意味を見出させようとします。
そしてギッリはこれらのシリーズによって、写真というメディアが過去と現在、架空と現実の媒介者として存在していることを示したかったのです。
Ⅲ
イタリアの風景 1ー場所の知覚
ルイジ・ギッリは風景の中に潜む視覚の構造に焦点を当て、既存の視覚経験の脱構築を試みてきましたが、(イタリアの風景>シリーズでは、その視点はより心理的な風景へと移行していきます。「進路は正確なものでも、記されたものでもなく、見ていると不思議に出来てくるもつれにしたがう」とギッリ自身も語るように、地図も方位磁針も持たず、「場所」に対する心理的な風景への知覚を探ろうとしたのです。
美術史の中で形成されたイメージや、絵葉書、雑誌写真といった大衆的イメージの起源を参照しつつ、ギッリはナポリやカプリなど南イタリア各地の風景を撮影しています。鑑賞者が「どこかで見たことがある」と感じる既視感は、まさにこうした視覚的記憶に由来するのではないでしょうか。
そこには、感傷的な地理学や、見るという行為に内在する混乱、そして未知への素朴な驚きと帰属感を探る、ギッリ特有の控えめでありながらも確かな無邪気さと希望が感じられます。
それは、南イタリアの優しさとコントラストに満ちた光の中に、静かに現れています。
Ⅳ
イタリアの風景 2一既視と未知
<イタリアの風景>の中で、レッジョ・エミリアやロンコチェージ、チッタノーヴァなどで撮影された作品には、静けさが漂っています。そしてそれは、まるで撮影者が誰であるかを名乗ることを拒むかのような、作家の沈黙のような静けさであるかもしれません。にもかかわらず、これらの作品は、なぜかあるや光、空間が、思いがけず親密さや懐かしさを私たちに呼び起こさせ、記憶に深く刻まれる力をもっています。
ルイジ・ギッリが「風景を初めて、そして最後に見るかのように見るとき、人は世界中のすべての風景に属しているという感覚を得る」と語るように、彼の写真は、「どこかで見たことがある」という既視感と、「決して見たことがない」という未知の感覚との間にある揺らぎを、私たちに感じさせます。
そしてその作品の意図を読もうとするとき、作家の視線を追うのではなく、私たちは自身の中にある記憶や想像を手がかりとするしかないのかもしれません。このようにして、ギッリの作品は、個人の記憶と想像という内的な思考の中に静かに鑑賞者を沈み込ませようとするのです。
V
アトリエの風景一内と外/在と不在
1976年から1979年にかけてルイジ・ギッリが撮影したシリーズに<アイデンティキット)があります。ギッリは、室内にある書籍やレコードといったものが、自身の関心や知的活動、想像力、読書、音楽鑑賞、旅の計画といった行為の痕跡であり、それらを組み合わせることで、作品イメージの中においては不在である自己を特徴づけるセルフポートレイトが形成されると考えていました。
そして<アイデンティキット)の制作から約10年後、ギッリは建築家アルド・ロッシや画家ジョルジョ・モランディのアトリエを撮影し始めることとなります。岡田温司は『ジョルジョ・モランディ」
(平凡社、2011年)の中で、ロッシやモランディの共通点として、「単純な形態への回帰と、それらのあいだにおける多様な組合せの探求、さらに周縁的でマイナー、民衆的でヴァナキュラーなものへの愛着」を挙げていますが、この特徴はそのままギッリにも当てはめることができます。
ロッシやモランディのアトリエを撮影した作品においても、ギッリは扉や窓、鏡といった内と外をつなぐモチーフが頻出させます。静物のある室内をただ静的に捉えるのではなく、そうした内と外の境界の曖昧さを写し取ることで、見るという行為の内に潜む、在と不在の関係性、また時間的・心理的な揺らぎを引き出そうとしたのです。そしてこの「内/外」の揺らぎのなかに生まれる静けさこそ、ロッシやモランディの作品に通じる「不動性と静けさ」であり、静かな緊張感をもたらしているのではないでしょうか。

| トランスフィジカル
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第4室
虚構と現実
Room 4: Constructed Realities
本来「客観的な事実を記録する」手段であった写真や映像が、コンセプチュアル・アートの思想に影響を受けながら、どのようにして記録を超えて構想に基づく表現ー「演じられた写真(ステージド・フォトグラフィー)」や、従来の映画の形式を逸脱し新たな映像言語を模索する「ヴィデオの実験性」へと変容していくのかを再考します。
コンセプチュアル・アートは、1960年代以降に広がった芸術の潮流であり、芸術表現の出発点を「アイデア(概念)」に置く点に特徴があります。物質的な形や視覚的な完成度だけではなく、表現の背後にある構造、文脈、思考のプロセスに重点が置かれ、視覚表現の可能性を広げる契機になりました。同時期に登場したコンピュータ技術の発展によって映像メディアも大きく拡張されて、身体性や個人の経験、ジェンダー、社会や環境の変化などを主題とし、映像を問い直す実践が展開されました。一方、写真表現においても、1970~80年代以降には単に現実をそのまま記録するのではなく、あらかじめ被写体、照明、構図、時間などといった要素を加工して演出する「ステージド・フォトグラフィー(Staged Photogtaphy)」が登場しました。
撮る行為が、次第に「作る」行為へと変化し、写真はもはや記録だけではなく、コンセプトを具現化する場になっていきました。
第4室では、記録性と創造性、現実と虚構、ドキュメントとコンセプトといった異なる要素が交錯する空間を構築します。「人物」
「場所」「衣装」「音楽」「パフォーマンス」など、演劇的・舞台的な要素を取り入れた写真作品や、実験的手法による映像作品を横断的に配置し、それぞれの異なる表現を意図的に組み合わせることで、写真と映像というメディアの多義性と表現の可能性を探ります。
企画:邱手瑄(東京都写真美術館 学芸員)
石原友明
石原は、制作行為は「ものを身体化すること、身体をイメージ化すること、イメージをもの化すること、を繰り返すひとつのプロセス」であり、「からだ」の有限性を拡張する試みだと語ります。
安村崇
事物のわざとらしい様子を手掛かりに、「日常」を「日常」たらしめているものを浮かび上がらせようとします。