mitsuhiro yamagiwa

2022-08-20

having and doing

テーマ:movie notebook

 2 公的選択の三つの次元

 他の民族の発展を進めることは、金持ちたちの義務と責任になった。
発展はまるで建設計画でもあるかのように語られた。

 産業化の進展とともに、家事などの人間にとって本来的で楽しいはずの諸活動は、市場経済に埋め込まれ、単なる無払い労働としての〈シャドウ・ワーク〉に変質している。

 彼女にとって病いとは感性の喪失である。『アメリカの女性化』

 賃労働を補完するこの労働を、私は〈シャドウ・ワーク〉と呼ぶ。

〈シャドウ・ワーク〉は、日常のきまりきった仕事とみなされている。けれども、それは遠まわしの表現をまき散らしてその陰に身をひそめるものとなっている。単一の実在物として分析することに強いタブーがはたらくのだ。産業的生活は、それらの必要性、規模、形を定めている。だがそれは、産業時代のイデオロギーによって隠されている。このイデオロギーによると、人々が経済のために強いられる活動のすべては、ほんらい社会的なものであるとの理由で、仕事としてよりもむしろニーズを満たすものとみなされる。

 賃労働にとって人は選択されるが、一方〈シャドウ・ワーク〉の場合は、人はそのなかに置かれる。時間、労苦、さらに尊厳の喪失が、支払われることなく強要される。

〈シャドウ・ワーク〉の量は、差別を測るうえに、就職の不平等よりまはるかに尺度となるものである。

 専業主婦の創出は、前例のない性的な隔離体制の証しである。だがそれはまた、欲望が結局は見せかけのものでしかありえなかったことを感知するような意識の例証である。多くのものはこの境界線を、人々から人々をいつまでも引き離してきた伝統的な境界領域の延長線上でとらえようとしているが、それはちょうど産業的労働を、人々がいつもやってきたことの延長線上でとらえようとするのと同様に、無益なことである。

 感傷主義は、生産と消費との対立のなかで暗黙のうちに、生活の自立と自存への郷愁をあやつることによって、隔離体制を首尾よく処理する。

『シャドウ・ワーク:生活のあり方を問う 』イヴァン・イリイチ/著、玉野井 芳郎・栗原 彬/訳より抜粋し流用。

おくれのおそれ

 ふだんのとおりにならない”遅れ”から、いつもとちがうコーヒーに気づいてしまう。

わたしがわたし自身に行き着いたかのような”怖れ”、毎日の繰り返しは隷属的な労働でしかないのだろうか。