mitsuhiro yamagiwa

2021-04-02

nunc

テーマ:notebook

 不安は、魅了し、幻惑し、最後には過ちへと強いる。

 キルケゴールとハイデガー双方の学説は次の点で同じである、すなわち、不安は、日常的な無邪気さのうちでの突発的な統覚から生じてくるという点で、つまり、あれやこれやの言葉によっては特定不可能な、また私がそれを行使するならば自分自身を構成するであろう、そういう或る種の可能性から生じてくるという点で同じであり、さらに或る観点において異様であり動転させるものから生じてくるという点でも同じである。
 以上のことは、なぜ両者によれば、不安がとくに孤立させ、個体化させるものであるのかを理解させる。

 キルケゴールにとって問題となっているには、心理学的な不安であり、精神のうちにある虚無である。ハイデガーにとって不安は、或る宇宙的事実に、実存がそのうえで際立ってくる絶対的な無に結びついている。

 世界を前にしての不安、それはつねに、自分自身であるという可能性をまえにしての不安である。なぜなら世界は、われわれがそれによって無のうえで際出させながら自分自身を構成する超越という努力の一面にすぎないからである。

 実存は「最高価値であると同時に罪」である。実存が最高価値であるのは、それが存在そのものであり、キルケゴールにとって、自由の反省的な働きの構成される存在以外の存在はないからである。「事物や対象[=客体]である存在はなく、自己性を構成している個人的な働きのうちで実現される存在以外に存在はない」。このような働きは、最高価値であるのみならず、まさにあらゆる価値を規定しているもの、あらゆる価値がそれによって測られるものでもある。

 「自己性を測る尺度は、つねに何に対してということ、つまり何に対して私だと自任するかということに存する」とキルケゴールは言っている。

 罪、それは自己であろうとする意志であり、悲劇はまさにこの意志のみがわれわれを存在させるということである。罪であるのは、自分の有限性を引き受ける有限者であり、この有限者を無限者に対抗させることで、それを自立的価値に仕立て上げたいと思う有限者である。

 有限者の真の偉大さ、それは、無限者に立ち向かい、無限者に対抗して自己自身であろうと望むことである。ただそのような働きを実行する者のみが真に存在するのであって、そのような働きが罪である。罪とは、限界づけられてありたいと望むことである。

 われわれの有責性の感情、われわれの「疾しい良心」は、われわれが実際に犯したであろう咎めるべき行動を自分に知らせるための手段ではない。

  現存在は、将来、過去、現在という三つの面によって限界づけられているがゆえに、その諸限界を乗り越えることができないだけではなく、その諸限界を決意性のうちで積極的に引き受けることで、自分自身の無性の根拠となるのであって、そのことが現存在の有責性そのものである。現存在は根本的な無力と有限性に苦しんでおり、キルケゴールはそれらをすでに「死に至る病」と呼んでいた。現存在は、その有限性の引き受けにおいてのみ本来的存在をもつことができる有限の実存である。あちらに現存在の病があり、こちらに現存在の責めがある。

 ハイデガーと同様にキルケゴールも、実存はその究極の根において時間性であると確信している。


 これこそ、第一の要点であり、それがさらに明確になるのは、キルケゴールが、時間の真の性格は、時間を純粋な「今」の継起とみなそうとする者の手からはつねに逃れ去るであろうと確信していることが判明するときである。というのも、そのような時間を「今」の継起とみなした場合、一つ一つの「今[nunc]」は、そこに到達しようと試みられるときにはもう消え去っている抽象的境界にすぎないからである」。

『マルティン・ハイデガーの哲学』アルフォス・ド・ヴァーレンス/著、峰尾公也/訳より抜粋し引用。