mitsuhiro yamagiwa

 瞬間は非延長的持続であり、永遠の一瞬である。

 瞬間が永続的であるのは、永遠を際限のない持続にするという意味においてではなく、それが先行も後続もされない絶対的な一瞬を措定するからである。瞬間は自己充足するアトムである。

 何よりもまず、過去をどのように理解するのか。過去は、かつてあったがもうなく、もはや永久にないだろうものではない。延長的な持続ももたないがゆえに、瞬間はなるほど、現在でもあることをやめるという窮地にあるわけだが、いったん現前から離れたからといって、追い越された「今」が消去されるような仕方で廃棄されることはありえないだろう。瞬間はもはや存在しえず、まるで一度も存在してこなかったかのように、今後も存在しないだろう。通俗的な過去の特性、それはまず、もう存在していないということであり、次に、まるでまったく存在してこなかったかのように存在しており、それゆえ現働的な現在に対するあらゆる効力を欠いているということである。それに対して、もう現在ではない瞬間は過去として存在し続ける。そして、この瞬間はそれであった価値は価値をもち続ける。瞬間の過去は、死んだ過去ではなく、生き続けている過去である。「現在的であったあと、それはもう存在していないものとして存続し続ける」(現在的であったあと、それはもう存在していないものとして存続し続けることができる)。瞬間は、その過去という形で見ると、存在し続けてはいるがもう現在的でないものを私に開示する。この過去が、人間はつねに自分の過去を携帯しているということを私に知らせる。私はかつてあったものである。瞬間の過去の経験が私に教えるのであって、それによればもう存在していない「今」が徹底的に廃棄されてしまう通俗的な時間観は、その経験を私に与えることができない。本来的過去は、もう存在していないかぎりで存在し続けている存在である。

 ハイデガーによれば、本来的過去は、被投性という事実、つまり完了しないが永続することもない事実のうちに存する。このことは、ほとんど一字一句キルケゴール的な定式に従って、現存在が「かつてそうであったように自身の過去」である(そのつどすでにそうあったように最も自己的にある)ことができるということを必要とする。

 双方のいずれの側でも、問題となっているのは「かつてそうであったように」であるが、この「かつてあった」は、キルケゴールにおいては、瞬間の充実的で絶対的な存在を対象としているのに対して、ハイデガーにおいては、被投性という事実と世界への引き渡しという事実とを対象としている。

 つまり先取りされるものは、キルケゴールにとっては瞬間であるのに対して、ハイデガーにとっては死である。

 ハイデガーは、諸脱自態のおのおのに固有の現実性を結びつけることで、この可能性論を乗り越えることに成功する。すなわち、過去には被統性を、現在には存在者の現前を、将来には私の死をそれぞれ結びつけることで、それに成功する。このように各脱自態はその源泉を、現働的な経験の対象となりうる出来事のうちにもっている。

 キルケゴールにとって、自分であろうとする意志のうちにしか存在はない。ところで、存在は真理であり、真理は存在である。その結果、あらゆる真理はこの意志の働きに依存しているということになるため、真理は、単独者の事実であり、単独者が自分を構成しているかぎりで存在するということをわれわれは認めなければならない。真理は客観的、独立的ではありえないだろう。というのも、真なるものは理解不可能な働きから湧き出るものであって、真理は主体性だからである。

すなわち、客観的な不確実性を獲得し、それを情熱的な内面性に変えること、存在者にとっての最高の真理とはそういうものであると。

現存在が存在するかぎりにおいてのみ真理はあり、あらゆる真理は人間にかかわっていると。

『マルティン・ハイデガーの哲学』アルフォス・ド・ヴァーレンス/著、峰尾公也/訳より抜粋し引用