mitsuhiro yamagiwa

2021-12-30

速度の測度

テーマ:notebook

さまざまな力と法則

 しかし「必然性」なるものは、ここでは空虚なことばなのだ。力はまさにこのように二重化せざるをうないがゆえに、そのようにせざるをえないと言っているにすぎない。

 およそ肯定的なものは、ただ否定的なものに関係することとしてのみ存在するからだ。

 運動の法則にあってはたとえば、必然的なかたちで、運動は時間と空間には分かれてゆき、もしくはさらにまた距離と速度とに分かれてゆく。運動とはこれらの契機のあいだの関係にほかならないのだから、運動、この普遍的なものがここではたしかにそれ自体そのものとして分割されている。

空間は時間がなくても表象されるし、時間は空間を欠いても表象される。また距離はすくなくとも速度なくしてもありうるものと表象されるのだ。

部分に分かれる必然性が、ここではたしかに示されているとはいえ、部分そのものが相互に対して必然的であることは示されていない。

 運動は要するに、それじしん単純なものとして、あるいは純粋な実在として表象されているわけではなく、あらかじめ部分に分かれたものとして表象されている。つまり時間と空間が運動の自立的な部分、もしくはおのおのそれ自身にそくして存在する本質である。いいかえれば、距離と速度はそれぞれ存在ないし表象の様式であるけれども、その一方はそれでも他方を欠いても存在しうるのであるから、運動とはそれゆえひとえに両者の表面的な関係にすぎず、その本質ではないことになる。

「説明」とはなにか

 区別は、したがって双方の場合についてそれ自身そのものとしては区別でまったくない。むしろ普遍的なもの、つまり力が部分に分かれて法則のうちにあるものに対して無関心であるか、あるいは区別されたもの、この法則の部分がたがいに没交渉であるか、のいずれかなのである。

 法則が一方では内なるもの、それ自体として存在するものであるいっぽう、法則とはじぶんのなかで同時に区別されたものであるという一点にあってのことである。

 くだんの必然性はただことばのなかに存しているにすぎないのだから、かくてまたその必然性を長々と語りだすことは、「必然性」なるものの円環をかちちづくっている諸契機をことあげするだけのことである。

 ことがら自身にかんしては、この説明の運動をつうじて、あらたなものはなにひとつ生まれることがなく、運動はひたすら悟性にぞくする運動として考慮されるにすぎない。その運動のうちにたほう、私たちが認識するのはいまやほかでもなく、法則においては見とおされていた当のもの、すなわち絶対的な交替そのものなのである。

 目のまえにあるものは問題の運動であって、そこではたしかに一箇の区別がなされているものの、その区別がなんら区別ではないがゆえに、それがふたたび廃棄されているのである。ーー説明が導入されるとともに、かくて変転と交替が登場することになる。

 私たちがここで問題としている意識はいっぽう、対象としての内なるものから、他方の側にある悟性へと移行して、その悟性のうちに当の交替を手にしていることになるのである。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。