mitsuhiro yamagiwa

2021-12-28

直接的で静謐な模像

テーマ:notebook

力の概念と「内なるもの」

 力の概念は、ふたつの力へと二重化することをつうじて現実的なものとなること、さらにはどのようにしてこの概念が現実的なものとなるのか、ということである。

 ふたつの力が存在するのは、むしろまったく一箇の他のものをつうじて定立されて存在することであるにすぎない。

 両方はふたつの極として存在するわけではない。このばあい極とは、固定的ななにものかをそれぞれに保持し、ひとえに外的な性質のみをたがいに中間項のうちへ、つまり両者の接触面のなかに送りこむ両極ということである。むしろふたつの力がふたつの力であるのは、ひたすらこの中間項のうちに、接触のうちにあることによってなのだ。

 それらの契機の本質は端的にいって、そのおのおのが他方をつうじてのみ存在し、だからそれぞれが他方によって存在するありかたは、おのおのがそれぞれに存在するときには、ただちに存在しないようになる、ということのうちにある。

 おのおの契機がにない、維持するような実体などそなえていないのだ。むしろ力の概念が維持されるのは、その現実的なありかたにあってすら本質的でありつづけることによってである。現実的なものとしての力は端的にただ外化のうちにあり、この外化とは同時にみずからを廃棄することにほかならない。ここていう現実的な力が、その外化は自由な、それだけで存在するものとして表象される場合には、その力はじぶんのうちに押しもどされた力なのである。とはいえ、じぶんのうちに押しもどされた力として規定されていることは、じっさいにはすでにあきらかなところであるとおり、それじしん外化にふくまれたひとつの契機であるにすぎない。

 力を実現することは、したがって同時にその実在性を喪失することなのだ。力は、それが実現することで、かえってまったくべつのものになっている。

 前者の第一の力はじぶんのうちに押しもどされた力、ことばをかえれば実体としての力であることになるだろう。そうなれば、この第二の力はたほう事物の内なるものである。「内なるもの」とはつまり、概念としての概念とおなじものというしだいとなるのである。

「超感覚的なもの」と現象

 内なるものあるいは超感覚的な彼岸とは、しかし発生してきたものである。内なるものは現象に由来し、現象が彼岸を媒介する。いいかえれば現象が彼岸の本質であり、じっさいには彼岸を充たすものなのである。

 つねに語られるところは「超感覚的なものは現象ではない」ということである。その場合しかし「現象」のもとで理解されている現象ではない。むしろ感覚的な世界が考えられているのであって、その感覚的世界はしかもそれじしん実在的な現実として理解されているのである。

現象の真のありかたは「法則」である

 真なるものは、とはいえ悟性にとって単純な内なるものとなる。

 ここで目のまえに存在しているのも同様にただ、規定されたありかたが直接に交替すること、あるいはそれを絶対的に交換してゆくことであるにずきない。

 個別的にそれだけでなにかがあるのでもなく、さまざまにことなった対立があるのでもない。むしろこの絶対的な交替のうちに存在するのは、ただたんに普遍的なものとしての区別である。

 否定が普遍的なものの本質的契機であって、否定あるいは媒介はしたがって、普遍的なもののうちにあって普遍的な区別である。  

 超感覚的世界とは、かくして諸法則のかたちづくる静かな王国である。この世界が、知覚される世界の彼岸にあることはたしかである。知覚される世界が法則を呈示するのは、ひとえに不断の変化をつうじてのことであるからだ。とはいえたほう、超感覚的世界は知覚される世界のうちにもやはり現在する。だから前者は後者の、直接的で静謐な模像なのである。

限定された法則と普遍的な法則

 このように一方が他方と一致することで、しかしそれぞれの法則はおのおの規定されたありたかを喪失するにいたる。法則はしだいにより表面的なものとなってゆき、その結果じっさいに見いだされるのは、この規定をともなった法則の統一ではなく、かえってそれぞれの規定されたありかたが取りだたされた法則である。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。