あらゆるものはあらゆるもののうちにあり、それの外では無である。
1 なんであれかまわないもの
到来する存在はなんであれかまわない存在である。
quodlibet ens というのは《なんであるかは関係がない存在》ではなくて、《なんであれ関係があるような存在》のことである。すなわち、そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されているのであって、望ましい存在は願望と本源的な関係を有しているのである。
なんであれかかまわない単独の存在〔〈愛する価値のあるもの〉)は、けっして何ものか、あれやこれやの性質ないし本質を知っているわけではなく、あくまでも知る可能性があるということを知っているにすぎない。プラトンがエロース的な想起として描写している運動は、対象を別の事物や別の場所に向かって移動させるのではなく、自己そのものの生起〔aver-luogo : 場所をもつこと〕に向かって、つまりは〈イデア〉に向かって移動させるのである。
3 見本
個別的なものと普遍的なもののアンチノミーはその起源と言語活動のうちにもっている。
近代の論理学において集合論が隆盛をきわめているのは、集合の定義がたんに言語による指示作用を定義したものでしかないという事実に起因している。
言語的存在は自己自身に所属すると同時に所属しないあるひとつのクラスである。そして自己自身に所属しないあらゆるクラスからなるクラスが言語なのだ。
普遍的なものと個別的なもののアンチノミーを逃れているひとつの概念がずっと前からわたしたちによく知られていた。見本という概念がそれである。
見本の特徴をなしているのは、それが同一のジャンルのすべてのケースに妥当するものであると同時それ自体それらのケースのなかに含まれているという事実である。見本は、それ自体が個物でありながら、他の個物のそれぞれを代表する立場にあって、すべてに妥当する。
個別的なものでもなければ、さりとて普遍的なものでもなく、見本はいわば自らをあるがままの姿で見るようにさせ、その個物としてのありようを挙示してみせる特異な対象なのだ。
見本の占める固有の場所はつねに自らの傍らにある空虚な空間に存在している。そして、そのなかにあって、品質づけることもできなければ忘却することもできないのは、ただひとり言葉のなかにある生だけである。この生は純粋に言語的な存在である。品質づけることもできなければ忘却することもできないのは、ただひとり言葉のなかにある生だけである。見本的な存在は純粋に言語的な存在である。
それは<最も共通なもの>であって、およそあらゆる現実の共通性を切断してしまうのだ。ここから、なんであれかまわない存在の無力な汎妥当性が出てくる。
これらの純粋な単独者は、あくまでも見本の空虚な空間のなかで、なんらの共通の特性、なんらの自己同一性によっても結びつけられることがないままに交信しあう。それらの単独者は所属そのもの、記号を自らのものにするためのあらゆる自己同一性を剥奪されてしまっている。トリックスターないし無為の徒、助手ないしカートゥーンとして、彼らは到来する共同体の見本にほかならない。
『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。