mitsuhiro yamagiwa

2021-06-06

観念的限界と現在化

テーマ:notebook

第一六節 過去把持や想起とは異なる現在化としての知覚

 メロディー全体は、最後の音が鳴り終わったとき、初めて過去のものとなるのである。

 しかし「時間客観は、絶え間なく新たに生ずる根元的印象の中でなおもそれが産出されている限り、知覚されている(または印象的に意識されている)と言えよう。
だからわれわれは過去そのものが知覚されると言ったのである。

 時間客観は、その本質的特徴として、ある期間にわたってその質料を広げている。したがってこのような客観は、まさに時間の相違を構成する諸作用の中でのみ自己を構成しうるのである。

 たとえばメロディーのような時間客観を直接直観的に把握する意識の場合、いま聞こえている拍子や音や音の一部分は知覚されているのに、その瞬間に過ぎ去ったものとして直観されるものは知覚されていない。ここではいろいろな統握が連続的に移行しあい、それらは今を構成する統握のなかに終着するのである。しかしこのような統握は単なる観念的限界にすぎない。

 その事象の本質上われわれはただ多くの統握の連続だけを、というよりむしろ絶えず変様する唯一の連続体だけを所用しているのであり、またそれのみを所有しうるのである。

 知覚とはいろいろな作用性格の連続を統合し、そしてあの観念的限界[=いま]をもつことを顕著な特徴とする作用性格のことである。この観念的限界を伴わないこのような連続性が単なる記憶である。したがって観念的な意味では、知解(印象)とは今まさに一個の観念的限界であるにすぎず、それだけでは何ものでもありえない抽象物にすぎない。しかも、この観念的な今と言えども非今と完全に異なったものではなく、連続的にそれと和合しているのであり、このことは厳然たる事実である。したがってそれに対応して知覚は第一に記憶へ連続的に移行するのである。

第一七節 再生に対立する自己能与的作用としての知覚

  想起においてもなんらかの今がわれわれに《現出する》のであるが、しかしそれは、知覚のうちに今が現出するのとは全く別の意味で《現出する》のである。この今は《知覚されている》のではなく、すなわち自己所与ではなく、現前化されているのである。この今は与えられていない今を表象しているのである。

 しかし一切の根源を内蔵し、原的に構成する作用を知覚と呼ぶとすれば、第一次記憶は知覚ということになる。なぜならわれわれは第一次記憶の中でのみ過去のものを見るからであり、過去はその中でのみ構成されるからである。しかもそれは再現的にではなく、現示的に構成されるのである。たったいま存在していたということ、すなわち「今」に対立する「以前」は第一次記憶によってのみ直接的に観取されうるのであり、この新しい特殊なものを第一次的、直接的に直観させるのが、それが第一次記憶の本質である。これは、今を直接的に直観させることが今の知覚の本質であるのと全く同じ事情である。それに反して想起や想像はただ単に現前化をわれわれに提供するにすぎない。

想像された今は今を表象しているが、しかし今そのものを与えはぜず、想像された前後はただ単に前後を表象するにすぎない。

『内的時間意識の現象学』エドムント・フッサール/著、立松弘孝/訳より抜粋し引用