mitsuhiro yamagiwa

第一九節 過去把持と再生の(第一次記憶と第二次記憶ないし想像の)相違

 想像とは現前化(再生)の性格をもつ意識である。現前化された時間というものも確かに存在してはいるが、しかしこの時間は根源的に与えられ時間へ、すなわち想像された時間ではなく、現示された時間へ、必然的に遡源するのである。現前化は根源的能与の作用に対立するものであり、そこからなんらかの表象も《発生》しえない。すなわち想像はなんらかの客観性やあるいは客観性に含まれる本質的または可能的特徴を自己所与しうるような意識ではない。{客観]それ自身を与えないということこそまさに想像の本質なのである。想像という概念すら想像から発生するのではない。なぜなら、想像の本質がわれわれに原的に与えられているというからには、われわれは確かにいろいろな想像をしている筈であるが、しかし[想像するという]このことだけではまだ[想像の本質そのものが]与えられているということにはならないからである。当然われわれは想像の働きを考察し、それを知覚しなければならない。想像の知覚は想像という概念を形成するための根源的能与の意識であり、この知覚の中でわれわれは想像の本質を観取するのである。すなわち[知覚の中でそれを]自己所与性として意識することによってわれわれは想像を把握するのである。
 再現前化記憶と、今の意識を拡張する第一記憶との間に大きな現象学的相違の存ずることは、これら双方の体験を注意深く比較してみれば明らかである。

 現前化の作用はそれに先立つ知覚作用と全く同じ時間延長をもち、それは知覚作用を再生し、音の位相や音程を次々に経過させるのであり、しかもそれとともに先にわれわれが比較のために選んだ第一次記憶の位相をも再生するのである。その場合現前化の作用は単なる反復ではなく、したがってその相違は「一方は端的な再生であり、他方は再生の再生である」という点にのみあるのではない。われわれはむしろその内実のうちに幾つかの根本原理な相違を見出すのである。

 今が絶えず過去へ過去へと次第に衰退するにつれて、直観的時間意識も絶えず衰退してゆくのである。しかしそれに反して知覚からの想像への、印象から再生への移行は連続的とは言えない。

 したがってわれわれは「われわれが原的意識とか印象とかあるいは知覚などと呼んでいるものは絶えず次第に衰退する作用である」と言わねばならない。具体的知覚はすべてこのような衰退の全連続を含んでいる。

第二三節 再生された今と過去との合致、想像と想起の区別

 再生された今が直接的に表象するのは所詮一つの今にすぎないのである。では過去のものへの関係はいったいどのようにして成立するするのであろうか?過去のものが原的に与えられるのは結局は《たったいま過ぎ去った》という形式においてのみである。

 再生された今と過去との間の関係は原的時間意識の中でのみ成就されうるのである。現前化の流れは体験の諸位相の流れであり、しかもこの流れは時間を構成する流れのどれとも全く同じ構造でできているのであるから、したがってそれ自身も時間を構成する流れの一つである。時間形式を構成する射映や変様はすべてここに見出されるのであり、したがって、音の諸位相の流れの中で内在的な音が構成されると同様、音の現前化の諸位相の流れの中では音の現前化の統一が構成されるである。

 したがってどのような現前化であろうと、それが普遍的に時間を構成し形成する体験の流れである以上、現前化も内在的客観を構成するのであり、この内在的的客観は、《持続し、一定の仕方で流れゆく、現前化の過程》てある。

 ……その[現前化]流れは一つの構成的全体へ統合され、そしてこの全体の中で一つの志向的統一が、すなわち記憶された事柄の統一が意識されるのである。

第二四節 想起の場合の未来把持

 すなわち「記憶はすべて、現在に至って初めて充実される予期志向を含んでいる」ということを計算に入れねばならない。

 それまでは単に予示されていたにすぎないものがいまは疑似的に現在するものとなり、[時間的客観を]実現する現在の様態のうちに擬似的に存在するのである。

第二五節 想起の二重の志向性

 知覚の場合の事物はどれもがそれぞれの背面を背景としてもっているのである(なぜなら問題になるのは注意の背景ではなく、統握の背景なのであるから)。すべての超越的知覚にその本質的成素として属する《非本来的知覚》という構成要素は特定の諸関連の中で、諸々の所与性の諸関連の中で、充実される《複合的》志向である。

第二六節 記憶と予期の相違

 直観的記憶はある出来事の持続経過を私に生きいきと再生して見せるのであるが、しかし以前は遡示し、そして生きいきとした今に至るまでを予示する志向だけはつねに非直観的である。

 将来の出来事を直観的に表象する場合、私は再生的に経過するある過程の再生的《心像》を現にいま直観的に所有している。そしてその心像には不定な未来志向と過去志向が、すなわち〈その過程の最初から、生きいきとした今に至って終着する時間的周円に、係わっている志向〉が結合している。その限りにおいて予期直観は逆立した記憶直観である。

 記憶も直観的でありうるが、しかしその多くの直観的構成要素が真の記憶性格を全く所有していない場合には、記憶もあまり規定されているとはいえない。

 一般に予期は多くのことを未決定のままにしておくのであるが、しかしこの未決定のままであるということが予期の構成要素の性格でもある。

 過去の出来事の再生は、再生自身の(内的意識内での)妥当性については、ただ単に記憶の不定性を認めさせ、再生への転移によってそれを改良させるだけである。

 私は現実にそれを見たことが、知覚したことがあるのだろうか、私はこの現出を、全くその通りの内容を備えた現出を現実に所有したことがあるのだろう?当然こういったことはすべて今にまで至るそのような諸直観の関連とも同時に繋がっている。しかし、現出するものが現実に存在していたのであろうか?
という疑問は確かにそれとは別個の問題である?他方それに反して予期は知覚によって充実される。予期されるものの本質に「それがやがて知覚されるものである」ということが含まれているのである。したがって予期されたことが現われ、現在するものになってしまえば、予期の状態そのものがもはや過ぎ去ったことになるのは明らかである。つまり過去のことが現在のことになったときには、現在のことは相対的に過去のことになってしまっているのである。

『内的時間意識の現象学』エドムント・フッサール/著、立松弘孝/訳より抜粋し引用