mitsuhiro yamagiwa

第二章 生ある思考

 考えるということは、様々な差異を忘れることである。ーーホルヘ・ルイス・ボルヘス「記憶の人、フネス」

 本章ではまず、人間のみならず、あらゆる生ある存在は思考するという主張を展開し、続いてそのことに密接に関連するもうひとつの主張を展開しよう。すなわち、あらゆる思考は生きている、というものである。つまり、「生ある思考」を取り上げる。

 私が言わんとするのは、人間的なるものを超えた世界とは、人間によって意味を与えられた意味なき世界ではない、ということである。

 その森は、必ずしも人間を中心にまわるものでもなく、人間に由来するのでもない「意味=すること」が出現する別の座をいくつも宿している。

 もし、思考が人間的なるものを超えて存在するならば、私たち人間はこの世界に住まう唯一の自己ではないことになる。要するに、私たちは、唯一の〈私たち〉というたぐいではない。

 ルナのアニミズムは、世界を思考するひとつの形式であり、世界=内=思考の独特な属性のいくつかを可視化するようにして、特定の状況でその思考に親密に関与することから生じる。世界の中の生ある思考とのそうした関与に注意を向けることは、人類学を異なった仕方で考える後押しとなる。すなわち、人間的なるものを超えて広がる世界の中でいかに私たちは生きるのか、ということに応じて私たちの生活が形づくられるありように注意を向けるのに有効な概念的道具立てを思い描く助けとなる。

 思考の生命とそれらを宿す自己にとって、見分けないこと、取り違えること、忘れることが決定的なまでに重要であるというのは、いったいどういうことなのだろうか。生ある思考において混同がもつ奇妙で生産的な力のために、社会理論において、一方で差異と他者性が、他方で同一性が果たす役割の基礎となっているいくつかに異議が示されることになる。このことは、諸自己が関係をつくる多くの可能な方法に、言語的な関係性の論理の前提をあてはめてしまいがちな私たちの性分のかなたに私たち自身を連れだすようにして、関係性の再考を促すのである。

非人間の諸自己

女たちはイヌの吠え声を解釈できるとたしかに思っていたが、だからといって、彼女たちはイヌを自己として認識するわけではない。そのイヌを自己にするのは、イヌの吠え声は自らを取り巻く世界をイヌがいかに解釈したかを示している、という事態である。

つまり、私たち人間は、世界を解釈する唯一のものではない。「関連性」ーーもっとも基本的な形式をとった表象、意図、目的ーーは、生物界における生ある動態に本来備わる構造化の特徴である。生命は本来、記号的である。

すなわち、生命とは記号過程である。パースによる記号の定義にあるように、「何らかの側面、能力において、何かが…誰かにとって何かを表す」あらゆる動態が、生きているのだろう。

 パースの記号論でもっとも重要な貢献のひとつは、何かが別の何かを現すことを記号とするような、伝統的で二項的な理解のかなたを見すえていたことである。

 つまり、記号は、ある「誰か」にとって何かを表すのである。さらに言えば、自己であるのは、脳をもつ動物だけに限らない。植物もまた自己である。さらに自己の質は身体的に境界づけられた有機体と同じ広がりをもつわけでもない。

 さらに言えば、自己であるのは、脳をもつ動物だけに限らない。植物もまた自己である。さらに自己の質は身体的に境界づけられた有機体と同じ広がりをもつわけでもない。つまり、自己の質は複数の身体にわたって分散することもあれば(ゼミナールや雲、もしくはアリの巣穴も自己として活動することができる)、ひとつの身体の内部にあるほかの多くの自己のひとつでもありうる(個々の細胞にも最小の自己という質がある)。

 自己は解釈過程の期限であり、かつその産物でもある。それは記号過程における中継点である。

 むしろ、自己であることは、先行する記号を解釈する新しい記号を産み出す過程の帰結として、この記号論的な動態から出現する。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳