mitsuhiro yamagiwa

成長

 特定の習慣を選択して捨てるというこの習慣から、より高位のまた別の習慣が創発することになる。

 世界の諸習慣と私たちの期待が衝突するときにだけ、他性としてある世界と、私たちが現在そうである以外の何かとしての現存する事実性が、露わになる。この崩壊につづく試練は、成長することである。このなじみのない習慣を包含する新しい習慣を創造すること、またそのプロセスにおいて、どれほど瞬間的であろうと、私たちを取り巻く世界とともにあるものとして、私たち自身を新しくつくり変えることが、その試練となる。

部分に先立つ全体

 分化した部分が最初で、組み立てられた全体がその次に来るのは、機械の領域だけである。記号論と生命は、それとは対照的に、全体から始まる。

 それゆえ、あるイメージは記号論的な全体であるが、それゆえに、イメージが表象する諸習慣の非常に大雑把な似姿となりうる。

 世界が私たちの前に現れるのは、私たちが習慣を持つようになるという事実によってではなく、古い習慣を捨てるように強いられて、私たちが新たな習慣を受け入れるようになる契機においてのことである。

開かれた全体

 いかに記号過程が象徴的なるものよりも広いのかを認識すれば、私たちは人間的なるものを超えて絶えず=創発する世界に住まう方法を理解することができるようになる。

 目的は、この習慣が持つ独特の効果を最小化することではなく、象徴的なものである全体が私たちを超えた世界において増殖することができ、そして増殖していく、多くの異なる習慣に対して開かれた異なる道をいくつか示すことになる。目指すべきは、要するに、そこでは私たちが開かれた全体となる道に向かう感覚を取り戻すことである。

 象徴的なるものの領域が開かれた全体であるのは、それがより広く、異なるたぐいの全体によって支えられ、また究極的にはその中で利を得るからである。そのより広い全体とは、イメージである。

 象徴的なるものは、イメージを感じるようになる、人間に特有のある決まったやり方である。全ての思考はイメージに始まり、イメージに終わる。全ての思考は、それをもたらすだろう道がどれほど長くとも、全体なのである。

 イコンには、「思いがけない真実を明らかにする力」がある。つまり、「それを直接観察することによって、その対象に関するほかの真理が発見されうる」。

 記号が対象を表すのは、「全ての点においてではなくて、ある種の観念との指示において」である。どれほどあいまいであろうと、この観念が全体なのである。

 最後に、これは一般的なものに関わる人類学である。というのもそれが目的としているのは、個別の身体や種、さらには具体的に今あることの限界を超えるひとつの〈私たち〉が、現在のかなたに広がることが可能になるような機会を認識することだからである。この〈私たち〉ーーそして、私たちにそれを想像し、理解するように誘う希望に満ちた世界ーーが、開かれた全体なのである。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳