mitsuhiro yamagiwa

7 公的領域ーー共通なるもの

「公的」という用語は、密接に関連しているが完全に同じではらないある二つの現象を意味している。

 第一にそれは、公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われがリアリティを形成する。この現われというのは、他人によって私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。

 私たちは、ただ、私生活や親密さの中でしか経験できないようなある事柄について語ることがある。この種の事柄は、その内容がどれほど激しいものであろうと、語られるまでは、いかなるリアリティももたない。ところが、今それを口に出して語るたびに、私たちは、それをいわばリアリティを帯びる領域の中に持ち出していることになる。いいかえると私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができるのである。

 他人によって、見られ、聞かれるということが重要であるというのは、すべての人が、みなこのようにそれぞれに異なった立場から見聞きしているからである。これが公的生活の意味である。

 共通世界の終りは、それがただ一つの側面のもとで見られ、たった一つの遠近法において現われるとき、やってくるのである。

8 私的領域ーー財産

 もともと「欠如している」privateveという観念を含む「私的」”private”という用語が意味をもつのは、公的領域のこの多数性にかんしてである。完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。

 私生活に欠けているのは他人である。

9 社会的なるもので私的なるもの

 私的領域を取り除くことが、人間存在にとっていかに危険なことであるかということを理解しなければならない。

 すなわち、私的な所有物は、毎日、使用され、消費されるものであって、共通世界のどの部分よりもはるかに切迫して必要とされる。

 必要は、人間の欲求や不安のうちで常に第一義的なものである。

 必要〔必然〕と生命とは、極めて親密に関係し、結びついているので、必要〔必然〕が完全に排除されているところでは、生命そのものが脅威に曝される。

 政治体の観点からではなく、私生活の観点から見ると、公的領域と私的領域の違いは、見せるべきものと隠すべきものとの違いに等しい。隠されたものの領域が、親密さの状況の下では、いかに豊かであり、いかに多様であるかということが発見されたのは、ようやく、近代になって、社会にたいする反抗が起こってきてからであった。

 近代になって労働者階級と女はほとんど歴史の同時期に解放された。この事実は、もちろん、肉体的機能と物質的関心をもう隠しておくべきではないと考える近代という時代の一つの特徴だとみるべきだろう。「必要物」というのは、もともと人間が肉体をもっているために必要とされるものの意味である。

10 人間活動力の場所

 たしかに、私的なるものと公的なるものとの違いは、必然と自由、空虚さと永続化、そして最後に、恥辱と名誉の対立に対応する。

 どういう文明がどういう場所にあるかに係わりなく、人間の活動力は、それぞれ、それにふさわしい場所を世界の中て占めていることがわかる。このことは、〈活動的生活〉の主要な活動力である労働、仕事、活動についてもいえる。

 イエスが言葉と行為で教えた唯一の活動力は、善の活動力であり、この善は明らかに、見られる聞かれることから隠れようとする傾向を秘めている。キリスト教は、公的領域に敵意をもっており、少なくとも、初期のキリスト教はできる限り公的領域から離れた生活を送ろうとする傾向をもっている。これは、ある種の信仰や期待とは一切関係がなく、ただ善行に献身しようとすれば当然報われる結果にすぎないと考えられる。なぜなら、善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためにのみなされるという善の特殊な性格を失うからである。

 したがって「右の手のしていることを左の手に知らせるな」ということになる。

 愛の活動力は、世界を見捨て、世界の住民から身を隠す。

原注

 生は死から生じ、死に戻る。

 奴隷が卓越を失うのは、奴隷は卓越を示すことができる公的領域に入ることを許されなかったからである。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。