mitsuhiro yamagiwa

2022-12-23

人間と物の間の交わり

テーマ:notebook

第三章 労働

11「わが肉体の労働とわが手の仕事」

人間は生命の必要物によって支配されている。

 実際、背後になにも残さないということ、努力の結果が努力を費やしたのとほとんど同じくらい早く消費されるということ、これこそ、あらゆる労働の特徴である。しかもこの努力は、その空虚さにもかかわらず、強い緊迫感から生まれ、何物にもまして強力な衝動の力に動かされている。なぜなら生命そのものがそれにかかっているからである。

実際、歴史が進むにつれて、労働は、隠れた場所から、それが組織され「分化される」公的領域へと連れ出された。この現実の歴史的発展は、マルクスの理論の発展に強力な裏づけを与えた。

 仕事の生産性は、人間の工作物に新しい対象物をつけ加える。これと違って、労働力の生産性は、ただ、たまたま対象物を生産するのであって、それがもっぱら係わっているのはそれ自身の再生産の手段である。

 考えることと仕事をすることとは、けっして同時的には起きることのない、二つの異なった活動力なのである。

 記憶は、結局は物化されるにしても、さしあたりは触知できない空虚なものを準備する。それは仕事の過程の始まりであり、職人が自分の仕事を導くはずのモデルをいろいろ考えるのに似て、最も非物質的な段階である。

12 世界の物的性格

 ーー労働生産性は、自己を再生産しようとする生命過程の必要条件を基準にして測定され、計算されていることが見られた。いいかえると、マルクスの場合、労働生産性は、人間の労働力に固有の潜在的剰余の中に存在しているのであって、労働が生産する物の特質や性格にあるのではない。

 永遠性と耐久性がなければ世界はありえないが、それを世界に保証するのは、世界の部分として眺められた仕事の産物であって、労働の産物ではない。

 絶えざる消費のために存在する消費財は、たしかに、人間の肉体が欲求するものであり、肉体の労働が生み出すものであるが、それらは、消費されるのではなく使用される物、そして使用するうちに私たちが慣れ親しむようになる物の環境の中に現われ、その中で消滅するのである。こういうものとして後者の使用される物は、世界の親しみ易さのもととなり、人間と人間の間だけでなく人間と物の間の交わりの習慣を作り出す。消費財が人間の生命に相対するように、使用対象物は人間の世界に相対する。そして消費財の物としての性格は、使用対象物から派生したものである。

 活動と言論の「生産物」は、そのままの状態では、他の物が有する触知性を欠くだけでなく、消費のために生産されるものよりも耐久性がなく、空虚である。そのリアリティは、人間の多数性に依存している。つまり、活動や言語を見聞きし、したがってそれについて証言できる他人が常にいなければならない。活動や言論は、労働や仕事と同じく、やはり、人間生活を外部に明示することにほかならない。しかし人間生活には、多くの点で外部世界と関係は保ってはいるが、必ずしも外部世界に明示されないし、現状となるためには見聞きされることも、使用されたり、消費されたりすることも要しない活動力が、ただ一つだけ知られている。思考の活動力がそれである。

 人間事象の事実的世界全体は、まず第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、触知できないものを触知できる物に変形することによって、はじめてリアリティを得、持続する存在となる。

 人間世界のリアリティと信頼性は、なによりもまず、私たちが、物によって囲まれている事実に依存している。なぜなら、この物というのは、それを生産する活動力よりも永続的であり、潜在的にはその物の作者の生命よりもはるかに永続的だからである。人間生活は、それが世界建設である限り、たえざる物化の過程に従っている。そして、人間の工作物を形成する生産物の世界性の程度は、世界におけるその物の永遠性の程度に依存しているのである。

13 労働と生命

 触知できる物のうちで最も耐久性の低い物は、生命過程そのものに必要とされる物である。それを消費する時間は、それを生産する時間よりも短い。

 生命とは、至るところで耐久性を使い尽し、それを消滅させ、消滅させる一つの過程である。そして、死んだ物体とは、結局のところ、小さな、単一の、循環する生命過程の結末にほかならず、それは、一切を含む自然の巨大な円環の中に帰ってゆく。

 自然の循環運動が、成長や衰退としてはっきり現われるのは、ただ人間の世界の内部においてだけである。

 自然の過程は、人工の世界に入ってきたときにのみ、成長し、衰退するのである。

 自然は、人間の肉体的機能の循環運動を通して、人間存在における自然を明示する。第二に、自然は、人工の世界を老化させたり、衰退させたりして、それにたえず脅威を与える。これによって、自然は、人工の世界においてもその存在を感じさせるのである。この二つのこと、すなわち人間における生物学的過程と世界における成長と衰退の過程に共通する特徴は、それらの過程が自然の循環運動の一部であり、したがって無限に繰り返されるということである。だから、これらの過程を扱わなければならない人間の活動力は、すべて、自然の循環に拘束されており、適切にいえば、そこに始まりもなければ終りもない。

 仕事は、その対象物が完成し、物の共通世界につけ加えられるばかりになったとき終わるのであるが、これと違って労働は、常に同じ円環に沿って動くのであり、その円環は生ある有機体の生物学的過程によって定められ、この有機体が死んだときはじめてその「労苦と困難」は終わる。

 労働と消費は、物質をとらえ、解体し、貪り食う過程であり、素材にたいして労働が行なう「仕事」とは、物質を最終的に解体するための準備にほかならない。

 自然の立場から見ると破壊的なのは労働よりもむしろ仕事の方である。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。