mitsuhiro yamagiwa

2023-03-28

見せかけだけの運動

テーマ:notebook

 現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立っても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう時代である。

 自殺者でさえ、今日では、絶望して自分に結末をつけるのではない。むしろ現代の自殺者は、この自殺という行為について実に長いあいだ熟慮に熟慮をかさね、ために、ついに思慮分別に窒息してしまうのである。

 というのは、彼から生命を奪ったものは、なによりもまず熟慮だからである。

 現代については、調子の狂った時代だと評さざるをえない。個人も世代も、たえずそれぞれ思い思いの方向に向かって進み、お互いに角つきあわせて邪魔し合っている。それだから、告発者たらんとする者が、なんらかの事実を立証しようと思っても、不可能なことだろう。事実などなにもないからである。徴侯だけならありあまるほどあるので、そういう徴侯を見ていると、なにか異常なことがすでに起こっているか、あるいはいまにも起こるだろうと、推論せずにはいられないであろう。

 こうして現代は、幻想的な骨折りに疲れはてて、しばしば完全な無感動の状態に落ち着いてしまう。その状態は、明け方にまどろみにおちた人の状態に似ている。

 個人個人は〔個々人のなかにどれほど多くの善意の人がいようと、使う段になったらどれほど多くの力をその人々が示すかもしれないにしても〕、反省の罠から、また反省のもつ誘惑的な不確かさから、身をふり離すだけの情熱を自分自身のなかにもっていない。それに、環境も、すなわち現代という時代も、出来事らしい出来事をもたないし、情熱をひとつに結集させるわけでもなく、むしろ消極的に結束して、反省の抵抗とでも言えるようなものを形成し、これが人々を欺いてまず一瞬、当てにもならない見込みをちらつかせて規模があるかのようき見せかけ、それからそのあとで、行動しないでいるのがやっばりいちばん賢明なことだったのだ、というりっぱな逃げ口上を与えて元気づけるというわけだのだ。

 革命時代が行動の時代だったのとは逆に、現代は広告の時代であり、なんでもかんでも広告せずにはすまない宣伝の時代である。なにごとも起こってはいないのに、たちまち宣伝がおこなわれる。

 分別が圧倒的に優勢となったために、本来の課題そのものが、非現実的な演技の問題に、現実が芝居に変えられてしまったのである。

 したがって、全体は、見せかけだけの運動になり、臆病な自惚れの刺激材となるだけのことだから、このうえなくあぶなっかしいことになってしまうだろう。

『現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。