mitsuhiro yamagiwa

2023-03-26

単独者と多数者

テーマ:notebook

B 罪の継続

 人々は、多くの場合、ただ瞬間的にのみ自己を意識し、重大な決断をするときに自己を意識するばかりであって、日常の生活はまるきりかえりみられないのである。彼らはかろうじて一週間に一度、それも一時間だけ、精神であるだけのことであるーー精神であるあり方としてこれがかなり動物的なものであることは、言うまでもない。

 精神の規定のもとにあらゆる実存は、たとえそれが自分一個の責任にかかることであるとしても理念のうちに、一貫したものをもっている。しかしまた、このような人間は、一貫しないすべてのものを無限に恐れる、というのは、彼は、自分の生命としている全体から切り離されるかもしれないというありうべき結果について無限の観念を抱いているからである。

A 自己の罪について絶望する罪

 罪のうちにある状態が罪なのであって、この罪が新しい意識のなかで度を強められるのである。

 自己の罪について絶望することは、罪がそれ自身において一貫したものになったこと、もしくは、一貫したものになろうとしていることの表われである。

 罪それ自身が善からの離脱である。

 罪についての絶望は、自己自身および自己の意義について混乱した不明瞭さのうちにあるためか、それとも、偽善みたいなところがあるためか、それとも、どのような絶望につきものの狡猾さと詭弁を用いるためか、そのいずれかによって、とかく自分をなにか善いもののように見せかけようとしたがるものである。そうすると、それが、その人が深みのある人間で、それだから自分の罪をそんなに気にかけている、ということのあらわれだとされるのである。

 直接的な人々、子供らしい、もしくは子供じみた人々は、失うべき全体というものをもっていない。彼らは、つねにただ、個々のもののなかで、あるいは個々のものを、失ったり得たりするばかりである。

 ところが、罪のうちにある状態はまた、それ自身のうちで罪の度を強めることになり、罪の状態にあることを意識しながら罪の状態に踏みとどまるにいたるので、罪の度が高まっていくその運動の法則は、ここでも他の場合と同じように、内面へ向かい、だんだんと意識の度を強めていくのである。

B  罪の赦しにたいして絶望する罪〔つまずき〕

 神の最も近くに迫ることができるのは、神から最も遠く離れている場合である。神の近くに迫るためには、遠く神から離れ去っていかなければならない。神の近くにいるならば、神に迫ることはできない。近くにいるということは、「とりもなおさず」遠く離れていることなのである。

 罪の範疇は単独性の範疇でもある。罪は思弁的にはけっして思惟されえない。すなわち、単独な人間は、概念以下のところにある、人は単独な人間を思惟することはできない、ただ人間という概念を思惟しうるばかりである。ーーそれだから、思弁はただちに、個にたいする類の優位という説に落ち込んだのである。思弁に、現実に関する概念の無力さを承認させるなどということは、どだい、無理な要求だからである。

 単独者は、概念のなかに割り切られてしまうことのできないものとして、人間の概念以下のところにある。

 つまづきは単独者にかかわる。そして、そこからすなわち各人を単独者に、単独の罪人にすることから、キリスト教は始まる。

 われわれのほうが多数でありさえすれば、それはなにも不正なことではなくなる。多数者が不正をなしうるなどというのは、ナンセンスであり、時代遅れなのである。多数者のなすところ、それが神の意志だ、というわけである。

 要するにら、われわれが多数者になりさえするばよいのだ、一致団結するほんとうの多数者になることだ、そうなりさえすれば、われわれは永遠の審判者にたいしても安泰なのだ。

C キリスト教を肯定的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪

 このようにしてまた、人々は、抽象物を神に背負わせてしまったのであるが、この抽象物が、抽象物のくせに、あえて神と近親な間柄だと主張するのである。しかしそれは、ただ人間を厚顔にするだけの口実なのである。

 人間であるということは、個々の例がつねに類より以下のものであるような動物のあり方とは違う。人間は、普通挙げられるようなもろもろの特徴によって他の動物類よりもぬきんでているばかりでなく、個体が類より以上のものであるということによって質的にぬきんでているのである。そしてこの規定がまた弁証法的であって、それは、単独者が罪人であることを意味し、しかしまた、単独者であることが完全さであることを意味しているのである。

『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。