mitsuhiro yamagiwa

2022-10-27

自然の部分

テーマ:notebook

第19節 論理の肯定としての自然の死

 絶対的な必然性は依然として偶然的なのである。

 みずからの実存の根拠について反省することで、絶対的な必然性としてのみずからの実存は内に偶然性を含んでいなければならないと認識する。偶然性はそれゆえただ否定的なだけの概念ではない。偶然性は二重である。

 自然は偶然性という外としてみずからを表現することで超克され、これを通じて概念は即自かつ対自に到達する。理念に対する自然は必然的にみずからの他者であり、自由な意識的精神への通路として奉仕する。

 こうした自然の死を超えて、その死せる形骸から、より美しい精神の自然が立ち現れる。生ける存在者はこの分離とともに、そしてみずからとのかかる抽象的な一致とともに、途絶する。

 自然はみずからとは別のものに生成することで、みずからを再び理念として認識し、そしてみずからをみずからと和解させる。

 自然の死というのは論理の肯定なのである。

 自然の死は、精神の誕生なのである。これはヘーゲルの人間主義の一つの過激な表現である。精神を自然の部分として見るかわりに、彼は自然を精神の犠牲に捧げることで自然を解放するのである。

 シェリングの初期自然哲学では、偶然性は自由と自然の表現である。ヘーゲルの自然哲学では、偶然性は概念の自己規定のための一試練である。

 ヘーゲルにおける精神と自然は、生物的有機体論とは対照的な、また異なる関係をもつ。そこでは精神の進歩は、自然の死に向けた進歩でもある。

「問いは、生命や意識や自己反省が究極的に何であるのかということではない。むしろ、われわれの宇宙がその自然な進化の中で産出してきた、一切の自己反省的なシステムたちの行動上の諸特徴を、われわれは機械の中に再現できるのかということである」。ゴットハルト・ギュンター

 形而上学は存在と生成、特殊と普遍を調停しようとする。

 有機的なものというのは認識論の一概念でもあるが、形而上学の一概念でもある。

 ここで注意すべきは、ハイデガーにとって有機的なものは機械的なものと対立していないということである。もっとも神とは必ずしも何らかの神秘的な超越ではなく、むしろ合理化の根拠なのであり、このことはさまざまになされてきた神の存在証明に見られる通りである。

 スピノザの汎神論は神的なものを自然と統一させる一つの方法であり(神即自然)、そこでは神的なものはみずからが産出した実体に内在している。

第20節 一般再帰性とチューリングマシン

 ヘーゲルの論理学は矛盾を扱うものとして解釈する必要はありません。それは単純に新たな概念を獲得する一つのシステムとしての方法なのです。それは存在を時間の中で扱います。

 つまり第二のものが第一のものを打ち負かすのです。相対立するものの統一、そして矛盾が方向を与えるという考え方、そういう観点からしてみると、二律背反はまた別の解釈ができるのです。 ゲーデル

 アルゴリズム的な思考は、再帰ないし反省という概念との関係において理解されなければならない。

 デジタルな再帰性の概念をあらためて簡潔に要約しよう。再帰とはここでは毎回の反復でみずからを呼び出す関数のことを意味しており、これは停止状態に到達するまで繰り返される。停止状態は、あらかじめ定義された実行可能な目標か、あるいは計算不可能であることの証明かである。

 こうした一般再帰的な思考の実現こそ、わたしがアリゴリズム的な思考と呼ぶものの興隆である。反復の位置形式として考えられた自動化とは反対に、再帰はアルゴリズムが自己措定し自己実現する能力の一発生として考えられた自動化なのである。

 「絶対的な知識は存在せず、すべては蓋然性のみによって進む」ゲーデル

 しかし反省はより高次の論理に向けて運動する一つの道として考えられている。

 とまれ、いま性急に結論へと向かうのはよそう。次に必要なのは、有機的なものという概念が二〇世紀初期のサイバネテイクスの文脈においてどのようになお我有化されているのかをさらに調査することである。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。