mitsuhiro yamagiwa

2023-06-13

自己客視化

テーマ:notebook

d 歴史主義に対して

 われわれは真理はもっとわれわれの近くにあると信じ、また、われわれの時代に活潑になった諸問題に対して解決を求めるには、かく懸け離れた源泉に向ってさまよう前に、まずわれわれ自身のもとでまたわれわれ自身の立っている上でそれをなすべきであると信ずる。

 直接なる認識の可能性が与えられる時、単に歴史的な信仰の時代は去る。われわれはいかなる書かれた顕示よりも更に古い顕示をもつ。自然をもつ。自然はまだ何びともその意味を解かない範型を含んでいる。しかるに書かれた顕示の範型はとっくにその成就と解釈とを受けているのである。

 今はもろもろの古い対立を再び呼び醒すべき時ではない。あらゆる対立の外にまた上に存するものを求むべき時である。

 (一ニ)汎神論は一般に、万物が神に包含されていて、神のそと(外)には何もないというのであるが、この場合でも神のほかに(神の内にではあるが)他の物(万物)を認めることはできる。この「他のもの」を認めないらば、神の外にのみならず、神のほかに何もないという主張になる。

 (一九)シェリングは(後に考えられるごとく)、実在的なるものを根底とした彼の自由概念に対して、普通にいわゆる自由、なんでも恣にできるという自由を「形式的自由」と称した。

 (ニ三)絶対的主観は或るものに自己を客観化し、更にそのもののうちに自己を客観的して次の段階に上り、かくして発展して行く。しかもこれは時間的発展ではなくして、一切はただの一挙を以って起こるのである。(このことは、鏡を鏡に映すとき生ずる現象に譬えることができる。ただこの歳際自己のうちに自己を映すのであるから、鏡は二つではなくして一つである。すなわちいわゆる自己表現である。その時、映った鏡のうちにまた鏡が映って行くごとく、同一なものが二重三重と無限に重なって行く。それは数学における二乗三乗等と同じ意味のものである。)ーーが、かの自己客視化は窮極において自己自身に帰るものである。絶対的主観は自我性においてみずからを現実的にする。

 (ニ五)自由を自体なるもの一般とするだけでは、あらゆる物の自体と人間的自由との区別以前の一般的なるものにとどまるだけである。そこから人間的自由を限定し出すにはその種差が必要である。

 (四三)hineinbilden, Einbildung カントのEinbildungskraft(構想力、想像力)は、フィヒテ以来次第に、主観が客観と一つのもの(ein)を形成する(bilden)或いは主観が客観のうちに入って(ein)形成作用をする(bilden)、或いはこの両方の意味をもつようになった。ーー(あたかも芸術家の働きが材料のうちに入ってこれを形成し、またその働きと材料とが一つになって芸術作品を作るごとく。)

 直観し入れる(Hineinschauen)というのは、このHineinbildenが、芸術家の場合のごとく動く働きではなくして、直観することが直ちに直観されるものの生ずるゆえんであるというごとき関係であるからである。(あたかも空間において、形式的直観が直ちに直観の形式であるごとく。

 或いはカント自身やも理性を自然のうちに置き入れるhineinlegenというごとく)。要するにこれらは主-客観化の別の言い表わしにほかならない。

 (四六)ーー同一哲学の主ー客観化においても初めは客観的なるものが勝ち、それより次第に主観的なるものが強くなって行く。

 両者合して形像する(bilden)ものとなる。これが生きた同一である。それは現勢的に実存するものとしての神の写像である。

 (四七)なんとなれば、人と神との間に区別がある故、神が人のうちに自己を写す。しかしこの自己顕示において初めて神も(人間の精神のうちに)精神として自己を現わす。

 (五〇)『感応的原理 das iritable Prinzip』シェリングの自然哲学は有機的過程に増殖、感応性、感覚性の三つを考えている。そのうち感応性とは外からの刺戟に対して反作用することである。

 (五三)シェリングは気象的現象例えば嵐のごときものをば、引力と斥力の二つの争いに伴って起こる現象であると考えた。いわゆる磁場の嵐も同様である。これらは二つの中和より生ずる実在的生産物ではなくして、単にそれらの力の関係の動揺にすぎず、従って実在的なものではない。疾病や悪についても同様である。

 (六ニ)感性的欲望の支配が悪であり、その欲望の征服が自由であるから、悪は自由以前のもの、従って進んで悪を犯すという悪への自由は存しないことになる。

 (六六)自由はいわば単に潜在的で、根底よりの力がこれに打勝っている。

 主語も述語も全体を表現している。相対的に表現する場合でも同様である。ただ、表現するものとされるものとが自体において一つではなく両者の間に間隙がある。そしてこれが相対的表現たるゆえんである。

 (八一)欲望のある所には既に自由があり、自己保存の衝動は単子を単子たらしめる根源的のものであるには違いない。

『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳