mitsuhiro yamagiwa

 主体ならざるものが、瞬間的に共同体に面し、そこに向かって身を置く。そして共同体の思考が今度は主体の形而上学のもつ諸手段を超え出るのだ。

 共同体とは、つねに他人によって他人のために生起するものである。

 すなわち共同体はそれ自身の内在性が成立せず、主体としての共同存在などないという、そうした不可能性を引き受けているのである。共同体は言わば共同体の不可能性を刻みつけ自らそれを担っているーーこれが共同体の身振りであり固有の輪郭である。

 凡庸な人間は、ひがな一日ほとんど無に等しい生の強度をもって過ごすにすぎない。そんな人間は、まるで死が存在しないかのように振舞い、悔いることもなく自分以下の水準に止まったままでいる。

 至高の価値は人間にあるのだ。つまり生産が唯一の価値だというのではなく、それは人間のさまざまな欲求に答える方途であるにすぎず、生産が人間に奉仕するのであって、けっしてその逆ではない。

 個人とは一個のものにすぎないが、バタイユにとってものとは、コミュニケーションも共同体も欠いた存在として定義されうるだろう。

 しかしながら、バタイユ自身はいわば脱自と共同体との二つの極の間で宙吊りにされたままに留まった。

 共同体は脱自を拒み、脱自は共同体から退いているが、各々がそれ自身のコミュニケーションを開始しようとする身振りのなかにある。

 研究者の共同体なしには認識はありえないが、内的体験もまたそれを生きる人びとの共同体なしにはありえない。[…]コミュニケーションとは人間的現実に付け加わる何ものかではなく、むしろ逆にそれを構成するものなのだ。

 何らかの形でこの世界はつねにわれわれの世界であり、戦争以来、共同体というテーマをめぐって性急に、往々にして未整理なままにしてつねに変わらず人間主義的に粗描されたさまざまな変奏も、根本的な与件を深刻化しこそすれ、それを変化させるにいたらなかった。

 相変わらず本質的に問題となっているのは、営為、操作、あるいは操作性なのである。

 主体は自己の外に立つことはできないのである。とどのつまり、それは主体を定義するものであり、そのあらゆる外や、そのあらゆる「疎外」あるいは「外化」が最終的には主体によって消滅し、主体のうちで止揚されるということだ。

 他者たちというのは、互いにとって他者であり、それらの融合の主体にとって無限に他者である、そうした他者たちのことだ。そしてその主体はといえば、分有のうちに、分有の脱自のうちに沈み落ちてゆくーー「合一し」ないそのことによって「通い合い」ながら。この「コミュニケーションの場」は、そこでひとが一方か他方へと移行するにもかかわらず、もはや融合の場ではない。その場はおのれの脱-臼[位置を取り外すこと]をとおして規定され露呈されている。

 個人の限界とは実のところ、その個人には関わりのないものであるーーそれは個人をとりまいているだけだ(そして個人はここに示されたような限界をすりぬけてしまう。ひとがこの論理をすりぬけることができない一方でその論理が生き残り、そして共同体がそこで生き残るがゆえに、個人というものはないのである)。

 有限性は共出現する、つまり曝し出される、それが共同体の本質なのである。

 コミュニケーションとは、特異性を定義する外への露呈を構成しているものである。その存在[そう在ること]において、その存在[そう在るもの]そのものとして、特異性は外に曝されている。

 語る口は伝達せず、知らせず、絆をなさない。

 私は語る、するとたちまち私はーー私自身のなかの存在はーー私の内にいるように、私の外にいる。『至高性』

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。