mitsuhiro yamagiwa

2022-09-10

脱自的-存在とは?

テーマ:notebook

万人に共通なひとつの尺度は つねに存している。
しかし それぞれの人間にまた かれ固有のものが授けられている、
そして人はそれぞれ おのれの進みうるところへ進み 行ないうることを行なうのだ。

ヘルダーリン/手塚富雄訳者 『パンと葡萄酒』

第一部 無為の共同体

 だがまさしく人間の人間に対する内在、あるいはさらに、絶対的に、すぐれて内在的存在であるとみなされた人間こそが、共同体の思考にとっての躓きの石となっている。人間たちの共同体であるべきものとしてあらかじめ想定された共同体は、それ自体が、人間たちの共同体としてそれ自体の本質を総体的に実現する、あるいは実現するはずだということをあらかじめ想定している。

 経済的絆、技術的営為、そして政治的融合(組織体のなかでの、あるいはひとりの長のもとにおける)が、必然的にそれら自体によってこの本質を体現するというよりむしろ呈示し、露呈し、現実化していくのである。

 それはわれわれが「全体主義」と呼んでいるものだが、たぶんそれは「内在主義」と呼ばれるほうがいいだろう。

 しかし個人は、共同体の崩壊という試練の残滓であるにすぎない。個人がその本来の規定からしてーーその名が示しているように、それは原子であり、分割しえないものであるーーある分解作用の抽出結果として生じたものだということは明らかである。それは内在性のもつもう一つの、それと対称的な形象なのである。つまり絶対的に分離され、起源として、確実性としてとらえられた対自態なのだ。

 それにまた、世界は単純な原子の群れから作られているわけではない。

 一方から他方へと向かう、一方による他方の、一方から他方への傾向ないし性向がなければならない。共同体とは少なくとも「個人」のクリナメンである。

 個人主義とは、問われているのは一つの世界なのだということを忘れた辻褄の合わない原子論である。

 関係とは(共同体とは)、もしそれがあるとすれば、絶対的内在の自己充足をその原理においてーーそうしてその閉鎖上ないしは限界上でーー解体するものにほかならない。

 個人というテーマと共産主義のテーマは、内在という一般的な問題設定のなかで、この問題設定と密接に連関している。その二つのテーマは脱自の否認と連動しているのである。そして共同体に関する問いは、今後われわれにとってこの脱自-恍惚の問いと切り離して考えることはできない。すなわちそれは、もうおわかりのとおり、存在者たちの全体性の絶対性とは別のものとしての考えられた存在の問いと切り離せないのである。

 弁証法(つまり全体性のなかでの媒介化)を逃れるには二つの方法がある、一つは弁証法をかわして内在にもぐり込むやり方であり、もう一つは弁証法の否定性を開いてついにはそれを「使い途のない」〔バタイユが言うように)ものにしてしまうやり方だ。そうなると否定性の内在というものはなくなり、知の、歴史の、そして共同体の脱自が「ある」。

 いずれにせよ何らかの形で、真理をめぐる単純で古典的で教条的なシステムが、つまり政治的なもの(共同体の形態あるは構制)に適合する芸術(あるいは思考)、芸術に適合する政治、といったものが問題だったのである。その前提は依然として、作品の絶対のうちに、あるいはそれ自体作品として実現されるような共同体の前提と同じものだった。それゆえに、この現代性は、たとえそれが何を主張してきたとしても、その原理において依然として一つの人間主義なのである。

 まず問い直さなければならないのは、共同体の問いである。というのも、欠くことのできない空間の再配分もこの共同体の問題点にかかわっているからだ。

 共同体はただ単に義務と富との公正な配分によって構成されているのでもなければ、諸々の力と権威との幸福な均衡によって構成されているのでもなく、何よりもまず、ある同一性が複数性のうちに分有され伝播され、浸潤されることによって作られるのであり、その複数性を形成する各成員はまさにそれゆえに、共同体の生きた身体との同一化という付加的な媒介によってはじめて自己同一化を遂げることになる。

 共同体は社会が破壊したり喪失したものであるどころか、社会から発してわれわれに出来する何ものかーー問い、期待、出来事、命令ーーなのである。

したがって何ものも失われたわけではないのだ。失われたのはただわれわれ自身なのである。

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。