mitsuhiro yamagiwa

捕食

 この諸自己の生態学に生きる様々な存在に気づき、関わりあうためには、様々な存在を人格と見なさなければならない。しかしそれらを食料として食べるとき、それらは結局のところ、対象、死んだ肉にならなければならない。狩られる自己が人格であるのなら、ゆくゆくは人も、人間ではなくなった捕食の対象になるのではないだろうか。

 人々は、動物そのものの自己の質をいくぶんかを獲得しようと、肉としてではなく自己して、動物を消費することがある。

 諸自己の生態学は、相関的な代名詞の体系である。つまり、〈私〉ないしは〈あなた〉と見なされる者と、〈それ〉になる者は相対的であり、入れ替わることもありうる。

 己の尾を咬んでいるウロボロスのヘビのように、一緒にぐるぐるまわる終わりなき仕方で、これらの昆虫は、その役割を混同させるかのように、捕食者と餌食をひとつに結びつける。これが誘惑である。

 誘惑は、餌食の宇宙的編み目を通じて主体と対象が互いを互酬的に想像する、必ずしも平等でないあり方をとらえる。

 誘惑できる相手とは、とてもよく動く存在ーーはっきりとした志向性を備えている存在ーーだけである。

人間的なるものを異化する

 人類学は私たちが自文化を超えていくことを可能にするが、私たちは決して人間的なるものから大きく離れることはない。私たちが足を踏み入れるとされるものは、常にほかの文化だからである。ところがアヴィラの内省的な異化の技法やルナの人類学的な散策の形式は、異なる文化への旅にではなく、異るたぐいの身体を受け入れることに基づいている。ここでは文化ではなく自然こそが奇妙なものとなる。身体は多様かつ可変的なものであり、人間の身体は自己が宿る様々なたぐいの身体のひとつにすぎない。この人間的なるものを異化する形式を通じて、どのような人類学が姿を現しうるのだろうか。

 食べることは顕著な身体的変化(transmutation)の過程を伴うため、この再帰性の形式はしばしば食物連鎖と関わっている。

 私たちは、別のたぐいの身体化に備わる視点、主格である〈私〉から、異なる世界を見るのである。束の間、私たちは異なる自然に生きることができる。

 パースペクティヴの場所を定めることへの過剰か関心は、ほとんど禅に似た、いかなるときにおいても存在の正確な状態にこころづけするよう促す。

魂=盲

 情態と目的を持ち、思考し、身体化され、局在化された自己から行為主体性が切り離されるようになる世界がディストピアとしてわずかに姿を見せている。これが自己であることの終着点である。つまり、根本的な魂=盲、生命の魅力を欠く世界の暗示、自己も魂も未来もない、ただ効果があるだけの世界である。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳