mitsuhiro yamagiwa

2023-08-22

反応の連続性

テーマ:notebook

第三章 魂=盲

 モノを知覚する存在の前にモノが存在しなかったというのではなく、むしろ生ある思考がこの地球に出現する以前には、何ものもひとつの対象ないしは自己として別の自己との関係において立ち現れることはなかったのである。対象も、自己のように記号過程の効果なのである。

 狩猟することにおいて、あるものは自分が殺そうとする非常に多くのほかのたぐいの諸自己との関係において、自己の位置を占拠しなければならないからである。

皮膚を超え出る生命

 生命が潜在的に存在できるのは、何らかの記号論的な系統のうちであって、後続の自己を左右するような仕方で諸自己がほかの自己を表象するありようのおかげなのである。

 それゆえ、個人の死を超えたところには何らかの生命が存在する。

 私たちは皆、ゆくゆくは諸自己であることを止めるだろう。

 自己は身体化されていると同時に、身体を超え出るものとして存在する。それらは局在化されているが、個人を超え、人間的なるものすらも超えてゆく。

 魂(アルマ)をもつということが、アヴィラ・ルナが住まう諸自己の生態学における関係性を可能にしている。動物は他なるたぐいの諸存在を「意識している」がゆえに、魂を持つ。

 パースによれば、魂とは一元的に局在化された存在を伴うモノではなく、その複数の例化が同時に異なる場所において存在しうるという点で、むしろ言葉に似た何かである。

 パースの言葉でいう「反応の連続性」において、それは人々を収束させる。

死を完結させる

 ある者が死ぬと、その者の魂ーーあるいは諸々の魂、というのもパースが言うように、魂は多数であることができると同時に異なる場所に存在することができるからであるーーは肉体を離れる。

配分された自己

 脱主体化は、死、すなわち自己という質が身体化される座の物質的な消失によってのみ引き起こされるわけではない。ほかにも、生きているにもかかわらず自己がほかの諸自己から自己として扱われなくなってしまうような、考えるべきありようがある。

自己を超えて見る

 餌食が魂を喪失することによって、狩猟は容易になる。

 イヌの死は、「動物を=追う」能力の完全な喪失ーー根本的かつ瞬間的に魂=盲を押しつけることーーの結果なのである。

 私たちの生は、ほかの諸自己の動機について私たちが暫定的に行なう憶測を信じ、またそれに基づいて行動する能力によっている。

 『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳