mitsuhiro yamagiwa

2022-10-06

構造と作動

テーマ:notebook

第1節 理性の冒険

多数における統一、生成における存在、変化における定常。

 無限が有限の内にどのように刻印されているのか、その形式の一つを再帰は提示している。かかる無限はつねに近似でしかない。無限の世界にはもはや量の差異はなく質の差異しかないからである。

 偶然のものはときとして情報になるが、情報とはもともと形式を与えることをいう。情報は個体化の過程を誘発する。つまり或る予想外の出来事が他のもろもろの蓋然的な出来事の範囲を限定するとでもいおうか。

 かかる形成ないし形態発生を知識するということは、精神がみずからをそれと同じ運動の中に置くことができればこそ、そこに精神と自然の同一性があるからである。

第2節 不可視の自然、可視の精神

 すなわち、すべての原根拠(Urgrund)は一つの非根拠(Ungrund)ないし脱根拠(Abgrund)であり、すべての始原は別の意味で終焉なのである。

 再帰性は内在性についての一つの考えである。再帰性は、形相因と目的因すなわちテロスを強調することで、非機械的な実存を擁護する。

 美的判断力と目的判断力が類比的であるというのは、自然目的が、あらかじめ規則を与えられているのではない過程つまり偶然に開かれた過程を条件づける、自己組織化の一つの理念であるということである。

 美的判断力と目的判断力が類比的であるというのは、自然目的が、あらかじめ規則を与えられているのではない過程つまり偶然に開かれた過程を条件づける、自己組織化の一つの理念であるということである。

 行為というのはどれも再帰的なものである。つまり絶えずみずからに準拠しみずからを価値づけている。機械論にあるのは規定的判断力だけであり、この規定的判断力が情報をくれるのは線形の因果性だけである。

 自然目的を知識するということは、人間精神の目的を知識するということである。これは精神と自然の同一化を通じてしかなしえないことである。

 自我から出発し、フィヒテが障礎と呼ぶ非我に直面するたび、自我はみずからに回帰させられる。そしてこの再帰的で反復的な運動の中で、実在がそれそのものとして開示される。自我と非我とにかかる運動こそが、この哲学システムの根本原理(Grundsatz)である。

 シェリングは自然と精神の対立をかかる同一化の条件とは見なさない。むしろ彼は精神と自然を二つの類比的な構造と作動と見なしており、これは精神は不可視の自然であり自然は可視の精神であるという彼の有名な主張にもいわれている。

 自然と精神の対立、主体と客体の対立は、自然が主体になることで消滅するーー自然と精神の同一性が確立されるのである。ヘーゲルにはまた別の反省論理学が見られるが、これは二重否定(弁証法として知られる)を特徴としており、そこでは精神は自然を自己にとっての他者として認識することでこれを全体の内へと吸収するのである。

 われわれはヘーゲルに、運命としての自然の死、論理の肯定の犠牲を見いだす。そして偶然性で偶然性を超克しようとするこの試みにより、われわれはシステム化の問いに到達するのである。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。