mitsuhiro yamagiwa

2023-01-16

地球拘束的な被造物

テーマ:notebook

36 アルキメデスの点の発見

 キリストの生誕は、古代の終りをもたらしたのではなく、なにか新しい始まりを告げたのである。

 望遠鏡の発明もこれと同じであった。この器具を使ってはじめて実験的に宇宙を覗いて見たとき、その光景は、なるほどすぐに人間の感覚に調節されたが、やがてこの実験は、人間の感覚を超えて必ず永遠に存在するにちがいないものを暴露することになる。

 観念の領域には、独創性と深さがあるだけであり、これはいずれも人格的な特質にすぎない。そこには絶対的かつ客観的な新しさはない。

 結局、ガリレオが行ない、それ以前のだれもが行ないえなかったことは、望遠鏡を使って、宇宙の秘密が「感覚的知覚の確実さをもって」人間に認識されるようにしたことであった。

 私たちは客観的な属性の代わりに器具を見いだしているのであり、自然や宇宙の代わりにーーハイゼルベルクの言葉を借りればーー人間はただ自分自身に向きあっているのである。

 私たちが物理学でなにをしようと、要するに、私たちは常に地球の外部にある宇宙の一点から自然を操作しているのである。

 一般的相対主義は、太陽中心の世界観から中心なき世界観へ移動する途端に、自動的に生まれるものであり、それは、アインシュタインの相対性理論に概念化されている。この理論は「限定されたこの一瞬においてすべての物質は同時的に現実的である」ことを否定し、同時に、時間と空間に現われる存在は絶対的リアリティをもつということを暗黙のうちに否定している。

 世界疎外が近代社会の進路と発展を決定させたのにたいし、地球疎外は近代科学の品質証明になった。

 つまり、人間は、与えられたままの自然現象を観察する代わりに、自然を自分の精神の条件のもとに置いた。いいかえれば、自然の外部にある宇宙的・天文物理学的観点から獲得された条件のもとに、自然を置いたのである。

 そして、眼の肉体的視覚から隠され、多数者の訓練されていない精神からも隠されて見えないものを知覚するよう訓練を受けている人びとは、真の存在、あるいはむしろその真の姿を現わしている存在、を知覚した。しかし近代精神が勃興してくると、数学は、内容を拡大し、無限なるものに手を伸ばし、無限に成長し拡大する無限の宇宙の無限性に適応できるようになったばかりではなく、現象にかかわることを一切やめた。数学は、もはや、真の姿を現わしている存在にかんする「科学」、すなわち哲学の始まりではなく、人間精神の構造にかんする科学となった。

 近代になって「科学が数学に還元された」結果、人間の感覚が狭い範囲で確証した自然の証言は覆されてしまった。

37 宇宙科学対自然科学

 現代に生きる私たちだけが、それもまだほんのここ数十年の間に、科学技術によって完全に決定的されている世界に住むようになった。しかも、その科学技術の客観的真理と実際的な知識は、地球の「自然的」法則ではなく、宇宙の普遍的法則から引き出されている。

 現代に生きる私たち自身が、依然として、そしておそらくは永久に、地球拘束的な被造物であって、地上の自然との新陳代謝に依存していることに変わりはない。

 今日の科学は、真に「宇宙的な」科学であって、あえて、自然を破壊し、それと共に自然にたいする人間の支配権をも破壊するという明白な危険を冒してまで、自然の中に宇宙過程を引き入れている。

 私たちの心を最も深くとらえているのは、もちろん、巨大にふくれあがった人間の破壊力である。

 宇宙の観点から見ると、地球は特殊な事例にすぎず、そのようなものとして理解てきる。それはちょうど、このような観点に立てば、物質とエネルギーの間に決定的な相違はなく、二つとも「まったく同一の基本的本質の異なる形式にすぎない」ということと同じである。

 なるほど人間は、「宇宙的」絶対的立場から事を行なうことはできる。これは哲学者たちができるとは思ってもみなかったことである。しかし一方、人間は、宇宙的・絶対的観点から考える能力を失っているのである。

デカルト的懐疑の勃興

 かつては、感覚的真理が合理的真理と対置され、感覚の劣った真理受容能力が理性のすぐれた真理受容能力と対置されていた。なぜなら、この挑戦がはっきりと意味していたのは、真理にしろリアリティにしろ、与えられるものでなく、いずれもそのままの姿では現われず、むしろ現象に干渉したり、現象を取り除くことによって、ようやく真の知識が得られるかもしれないということだったからである。

 理性と理性への信仰は唯一の感覚知覚に依存しているのではない。

 この理性信仰は、共通感覚〔常識〕という第六番目の最高の感覚によって結びつけられ支配された五感全体こそ、人間をその周りのリアリティに適合させるものであるということをはっきりと仮定してはじめて、成り立つものである。

 本来、思考というものは、常にそれだけで本質に明らかであるもの。つまり考え手にとってだけではなく、万人にとって明らかであるものを出発点としていたのである。デカルト的懐疑は、ただ人間悟性は必ずしもすべての真理を明らかにしないとか、人間の視覚はすべてのものを見えるというだけではリアリティの証拠にならないのと同じで、ただ人間の悟性が理解できるというだけでは真理の論証とはならないのと同じで、ただ人間の悟性が理解できるというだけでは真理の論証とはならないという点を問題にしていた。この懐疑は、そもそも真理のようなものが存在するかどうかを疑っているのである。

 真理にかんする伝統的概念が、結局のところ、真に存在するものはそれ自身に従って現われ、人間能力はそれを認めるのに十分であるという二重の仮定にもとづいていることが明らかにされた。

 真理の確かさが失われた結果、誠実さを求める新しい前例のない熱狂が生まれた。まるで、人間が嘘をついても平気でいられるのは、一方に、真理と客観的リアリティが微動だにせず存在していることが確実である場合に限られているかのようであった。

 理論は仮説となり、仮説の成功が真理となった。

 デカルトは、「なるほど、われわれの精神は、物や真理の尺度ではない。しかし、われわれが肯定したり否定したりする物の尺度であることは確かであろう」と確信していた。

 デカルトにとって、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」は、思考そのものの自己確実性から生まれたものではない。もしそうなら、思考は、人間にとって新しい威厳と意味を獲得していたであろうから。この言葉は、「われ疑う、ゆえにわれあり」の単なる一般化であった。いいかえると、デカルトは、なにかを疑っている私は、その疑っているという過程に私の意識の中で気がついているという単なる論理的確実性から、次のような結論を下したのであった。人間自身の精神の中で進行しているこの過程は、それ自身の確かさをもっており、内省における調査の対象になりうると。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。