mitsuhiro yamagiwa

第六章 〈活動的生活〉と近代

35 世界疎外

 近代の入口には三つの大きな出来事が並んでおり、それが近代の性格を決定している。すなわち、第一に、アメリカの発見とそれに続く地球全体の探検。第二に、教会と修道院の財産を没収することによって個人的収用と社会的富の蓄積という二重の過程を出発させた宗教改革。第三に、望遠鏡の発明と地球の自然を宇宙の観点から考える新しいもの科学の発展。

 この三つの出来事は、もちろん、因果関係の連鎖で説明することはできない。出来事というのはどれ一つとしてそのように説明できないからである。

 そして、最も不穏であったのは、宗教改革の結果、西欧キリスト教がどうにもならないくらい分裂したことであったろう。この事件は、正統派にたいする独特の挑戦であり、人間の静かな魂を直接脅かした。

 距離の観念というのは、切れ目のない完全な連続体にもはやそなわっているものであるが、この距離の観念でさえスピードの攻撃に屈している。スピードが空間を征服したからである。

 スピードが空間を征服したために、距離が無意味なものになったことはたしかである。

 なるほど、測定できれば、それはもはや無限とはいえないし、調査というものは、本来、離れた部分を結びつけ、したがって以前距離が支配していたところを縮めるものであろう。

 すなわち人間精神は、数、シンボル、モデルを用いて、地球の物理的な距離を、人間の肉体が自然に感覚でき、理解できるサイズにまで圧縮し、縮尺することができるのである。

 手近なものとの係わり合いや関心から解放され、近くにある一切のものから身を引いて距離を置いたときにのみ、人間の観測能力が働くというのは、その能力の本性から来ている。自分と自分の周りの世界や地球との距離が大きければ大きいほど、人間は、それだけ一層よく観測し測定することができ、それだけ人間に残される世界と地球の空間は小さくなるだろう。地球が決定的に収縮したのは、航空機が発明され、その結果、人間が地球の表面を完全に去ることができたためである。この事実は、地球上の距離の縮小は、人間と地球との間に決定的な距離を置き、人間を地球の直接的な環境から遠ざけるという代償を支払ってのみ獲得できるという一般的現象の象徴のように思われる。

 可能性を問題にしだせば、その数は本性上、無制限であるばかりでなく、そもそも可能性というのは、具体的な出来事の意外性を欠いており、その欠如を単なる蓋然性で償うからである。その結果、ありえた可能性をどのように散文的に描こうと、それは純粋に幻にすぎないのである。

 ドイツの例が極めてはっきりと物語っていることは、現代の条件のもとでは、人民の収用、対象物の破壊、都市の荒廃なども、単に回復の過程を刺激するだけではなく、もっと急激で効果的な富の蓄積過程を根本から刺激するということである。

 ドイツでは、むきだしの破壊は、ただ世界のすべての物を価値低落させる無慈悲な過程の代理をつとめるだけである。この価値低落の過程は、今私たちの住んでいる浪費経済の品質証明でもあって、いずれにせよ結果はほとんど同じである。

 繁栄ブームは、豊かな物財やなにか一定の安定した物によって支えられているのではなく、生産と消費の過程そのものによって支えられているからである。現代の状況では、破壊ではなくむしろ保存のほうこそ破滅のもとになる。というのは、ほかならぬ保存される対象物の耐久性そのものが、売買過程を最も妨げる障害だからである。そして、めまぐるしく回転するこの売買過程で得られる一定の利益だけが、この過程で感じられる唯一の不変なものである。

 すでに見てきたように、財産というのは、富や専有と異なって、共通世界のうちで私的に所有された分け前である。したがって、財産は、人間の世界性にとって最も基本的な政治的条件である。これは、土地収用と世界疎外は時を同じくしているといっても同じことである。

 私たちは、この疎外が近代にたいしてもつ重要な意味を見落としがちである。それは、私たちがたいてい近代の世俗的性格を強調するあまり、この世俗性という用語と世界性という用語を同一視しているからである。しかし、世俗化は眼に見える歴史的な出来事であって、教会と国家の分離、宗教と政治の分離以上のことを意味しない。

 このように信仰を失った結果、人間はふたたび世界に投げ返されたということにはならないだろう。それどころか、歴史的証拠を見れば、近代人はこの世界に投げ返されたのではなく、自分自身に投げ返されたのだということが判るのである。近代哲学は、魂や人格や人間一般には関心を示さず、もっぱら、自我にたいして関心を注ぎ、世界や他人との経験をすべて人間の内部における経験に還元しようと試みてきた。

 マルクスの考えたような自己疎外ではなく、世界疎外こそ、近代の品質証明なのである。

 歴史上最初の自由な労働者階級が現われたとき、解放されたものはなんであったか。それは、豊かな自然の生物学的過程に本来そなわっている力、「労働力」であった。

 私たちの知っている富の蓄積過程は、生命過程によって刺激され、また人間の生命を刺激するものであるから、世界と人間の世界性そのものを犠牲にする場合に、はじめて富の蓄積過程が可能になるのである。

 以前、家族とは、私的に所有されているとはいえ手で触れることのできる財産の一片、すなわち国民国家の領土のことであった。なるほど、国民国家は二◯世紀になって衰退するが、少なくともそれまでは、すべての階級にとって、家庭の代わりとなった。いいかえると、貧民階級が奪われていた私的な家庭の代わりとなったのである。

 現代以前には抽象的な概念であり、ただ人道主義だけの指導原理であった人類が、地球の最も遠隔の地点にいる人でも、一世代前に国民同士が会うのに要したよりもっと短い時間内にお互い同士会えるほどの実体に変貌したこと。こうしたことは、いずれも、この発展が最終段階の始まりに立っていることを示している。ちょうど、家族が階級の構成員に代わり、財産が国家の領土に代わったように、今や、人類が国家としてまとまった社会に取って代わり始めており、地球が国家という一定の領土に取って代わろうとしている。しかし、未来がなにをもたらそうと、収用に始まり、絶えず増大する富の蓄積を特徴とする世界疎外の過程は、今後もそれに固有の法則に従うのを許されるならば、今よりももっと激しく進むだけであろう。

 社会が勃興したために、同時に、公的領域と私的領域が衰退した。公的な共通世界が消滅したことは、孤独な大衆人を形成するうえで決定的な要素となり、近代のイデオロギー的大衆運動の無世界的メンタリティを形成するという危険な役割を果たした。しかし公的な共通が消滅した結果、それ以上にはっきりしていることは、世界の中で私的に所有された分け前が失われたということである。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。