mitsuhiro yamagiwa

2023-10-23

内発性と人工性

テーマ:notebook

第四章 公的な役割

 ちょうど俳優が舞台の外での自分の性格を明らかにすることなしに人々の感情に影響を与えたように、彼の用いた信頼のコードが観客にとって同様の目的に役立った。

 人々はお互いの感情を喚起するのに互いに自分を明確にしようとする必要もない。

 今度は、この橋渡しによって、人々は非個人的な立場で社交的になる手段を得たのだった。

 秩序は、混乱に対する反応であるが、また混乱の超越でもあった。

身体はマネキン人形である

 身体は、遊ぶための楽しい玩具になったように思われた。

 平等主義を好む社会の論理によると、人々は必要がないときには社会的相違を表したりはしないものである。

 私的領域はより自然であり、身体はそれ自体で表現するものとして現れた。

 家庭にいるときとは違って、身体は衣服で飾られるべき一つの形だったのである。

 公的環境のなかで、自分をしるしづけるためのルールは、奇妙な、手に負えないものになろう。つまり見知らね人たちの外見から「さらに多く」を読み取りながら、男性も女性も見知らぬ人たちを理解するにあたっていっそう混乱した気持ちをもつことになろう。

話し言葉は記号である

 非個人的で抽象的なしきたりに生活が支配されている人々がどうして自己表現にこのように内発的で自由なのだろうか。

 彼らの内発性は、表現的であるためには自分を裸にしなければならないという考えを咎めるものだ。

 内発性とわれわれが「人工性」と呼ぶにいたったものとの間に何か隠れた、必然的な関係があるのだろうか?

 その関係は、象徴というよりは記号の問題としての話し言葉の原理に具体的に表れている。

 劇場での内発性は社会的身分の問題であった。

 現代の用語では「象徴」とは他のあるもの、または複数の他のあるものを表す記号として定義される。われわれは、例えば、象徴には「指示対象」がある、「先行するもの」があるなどと語る。

 記号を解読するという考えの社会的起源の一つは、今から一世紀に遡ることができ十九世紀の都市で行われるようになった外見の解釈という作業にある。外見は内部に隠されている真の個人をおおう被いだというわけである。

 話すことは、力強く、効果的で、とりわけそれだけで完結した、感情に訴える陳述をすることであった。

 話された言葉は、ある瞬間において現実であり、ポイントは以前に何が起こったか、またこれから何が起きることになっているかに関係なく信じられるがゆえに、観客の内発性もまた即座に解き放たれたのである。身振りの背後で実際に語られていることを知るために人々が瞬間瞬間に解読作業をおこなう必要はなかった。これがポイントの論理であった。つまり、内発性は人工性の産物だったのである。

 コメディ・フランセーズでの十八世紀の態度と、〈芸術〉と向き合うときは黙ってすわっている、現代の劇場の観客の態度との間には大変な相違がある。それは話し言葉のルール、衣服、衣装についても同様である。記号を経験することーー大声で、黙して、などーーが、記号が何であるかを定めるのだ。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳