mitsuhiro yamagiwa

2024-02-25

ゼロ地点

テーマ:notebook

第5章 共産主義を設置する

 「共産主義」という単語は通常「ユートピア」という単語と結びついている。

 ユートピア的想像の光景は、すでに存在しているものとしての世界の位相(トポロジー)の一部である。

 マルクスによれば、まだ完全には予測できない方法によって生産力の発展がわれわれの生活を変えるとき、共産主義は実現されるかもしれない。

 究極的にはシュティルナーのヒーローは、純粋な否定に等しい、「非生産的」で非経済的、もしくは反経済的でさえある芸術作品によって自分の唯一の存在を世界の中で実現させる芸術家である。この芸術家の役割についての理解はマレーヴィチにも共有されていた。彼は自分自身の芸術を「無対象」と呼んだ。それはあらゆる「現実の対象」への参照を追放したからだというだけではなく、おそらく第一に、彼の芸術には目標がなく、芸術そのものを超えた目的がないからである。

 もし個人が、その個人の社会を支配している、文化的、イデオロギー的そして政治的な価値に基づくあらゆる明確な形式を完全に把握しさえすれば、その個人の存在が技術的、物質的、政治的文脈に対して、密かに無意識および暗黙のうちに依存していることを主題化する言説を展開することができるだろう。そこには自己解放というその個人の行為の文脈も含まれる。個人が「無」になりさえすれば、その人が存在する文脈は透明で目に見えるものになるだろう。芸術作品を「無」、空虚、ゼロ地点へと還元することは、その鑑賞者の眼差しを芸術作品の文脈へと開く。知られているように、インスタレーションの概念はアメリカのミニマリスト、とりわけドナルド・ジャッドの芸術の分析の枠組みの中でマイケル・フリードによって紹介された。フリードは、ミニマリストによって実践された芸術作品の極端な還元は、鑑賞者の眼差しを、作品そのものから作品の文脈へと向け直させると議論する。この文脈はフリードによって展示の光景として理解される。それは展示空間もしくは自然の風景にもなりうる。この眼差しの移行を特徴付けるためにフリードはインスタレーションの概念を用いた。いいかえれば、もし批判的な意図もあるとすれば、フリードは無にまで還元された作品からこの無が出現する世界へと眼差しを向けなおすことを正しく記録している。

 フリードが記述したように、黒い方形の出現は、黒い方形の外で自然に与えられる、すでに存在しているものへと眼差しを新たに方向付けることを意味するのではない。むしろそれは、その出現の隠された段階へと向かう、黒い方形の内側そして背後への洞察を可能にする。

 芸術作品としてのインスタレーションは、今日ではしばしば、芸術家が自分の作品を民主化し、その公的責任を引き受け、特定のコミュニティもしくは社会全体の名において行為し始めることを可能にする形式として眺められる。このようにして芸術家が作品の空間に鑑賞者という大衆(マルチチュード)が入る許可を下すことは、閉じた作品の空間を民主主義へと開くこととして解釈しうる。

 しかしこのインスタレーション・アート実践の分析は、公的な展示空間を私物化するという象徴的な行為を見過ごしがちである。

 それならばインスタレーションの実践は、民主的な秩序を含めたどんな政治的秩序をも最初に設定する、無条件の主権的暴力の行為を明らかにすると言わなければならない。民主的な秩序は民主的な方法では決してもたらされないことをわれわれは知っている。それは常に暴力革命の結果として現れるのだ。法を作ることは法を壊すことである。最初の法の制定者は正当な方法で振舞うことは決してありえない。政治的秩序を設定するものは正当な方法には属さず、たとえ当人がのちにそれに従うことを決めたとしても、正当な方法に対しては外部にとどまっている。芸術作品としてのインスタレーションの作者もまた、訪問者のコミュニティそのものを制定する空間を与え、このコミュニティが従わなければならないルールを決める法制定者であるが、このコミュニティには属さず、その外部にとどまることでそれを行う。

 生にとってもしくは芸術にとって、手のつけられていない文脈はない。黒の方形を通して、自然および歴史的過去との断絶によって創造されたギャップを通して見えるものは何もない。芸術はそれ自身の文脈、つまりそれ自身がさらに機能するための社会的、経済的前提を創造しなくてはならない。

 芸術家は組織者なので、彼は組織されない。組織された生産的な労働が発生する空間を芸術家が特別に創造する。

 不可視のものを可視化することは伝統的に美術の主要な目的である。

 今日の見方からは、誰がより早く先に進み、誰が後ろに残されたのかを見分けるのは難しい。

 ある批判的分析的な意味においては、非公式なロシア・アヴァンギャルドの芸術よりもマルクス主義だった。それは芸術家自身を自分の実践の「客観的」な文脈を宣言する「ゼロ」のメディウムへと変えた。

 芸術家が芸術のゼロ地点へのラディカルな消滅を遂げることは、芸術の文脈を全体的な文脈として提示することを可能にする。芸術における、または芸術を通した自己ゼロ化は幻想である。しかしこの幻想を追求することによってのみ、この幻想の可能性を含む芸術の条件が可視化されるのである。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳