mitsuhiro yamagiwa

2022-07-05

ちがいを生むちがい

テーマ:notebook

Ⅳーー精神的過程を見分ける基準

心/身を二元化しない精神の定義は、どんな基準の組み合わせをもってすればよいのか。

 精神の過程はつねにパーツ間の相互反応の連続と考える。マインドの諸現象を説明しようというのであれば、つねに、複数の部分の組織のされ方、相互反応の仕方について語るのでなくてはならない。

 本書は終始、マインドのはたらきが、その差異づけられた”部分”間の相互作用に内在するという前提に立つ。そのような相互作用が組み合わさった上にはじめて”全体”が顔を見せるのだ。

● 基準2ーー精神の各パーツ間の相互作用の引き金は、差異によって引かれる

 急激な変化に対しては高い感度を備えているわれわれも、緩慢な変化を捉えることは順応accommodationという現象のために、きわめて難しくなる。生物は慣らされてしまうのだ。緩慢な変化と無変化(知覚不能の変化)とを区別するには、時計など、別種の情報に頼らなくてはならない。

 精神は差異の知らせしか受容しない。そしてまさにそれゆえに、緩慢な変化と静止状態との区別がうまくできない。

 ちがいを生むちがいこそが、情報なのである。

 ところが差異とは、まさに実体ならざるものなのだ。

● 基準3ーー精神過程にはエネルギーが伴うことが必要である

人を山になぞらえること、すべての人間関係を、マルティン・ブーバ言うところの、我ーソレ関係、否、ソレーソレ関係に帰することに通じる。山は、われわれの語りの中で擬人化されたとしても、人にはならない。より人間的な存在のしかたを学習するわけではない。ところが人間の方は、自らの語りや思考の中で擬物化されると、モノ的な行動習慣を学習してしまうこともあるのだ。

● 基準4ーー精神過程は、再帰的な(あるいはそれ以上に複雑な)決定の連鎖を必要とする

 岩石はいわば変化を受けつけない。置かれた状態のまま留まる。これに対し生物は、変化を修正する、変化に合わせて自分自身を変化させる、自らの中に永続的変化を編み込む、等の方法によって変化を逃れている。”安定”はかたくなさによっても得られるが、小さな変化がサイクルをなして永続的に繰り返され、そのなかで撹乱を受ける以前の状態がつねに取り戻される、という形でも得られるのだ。自然は、つかのまの変化を受け入れることによって、非可逆と思える変化を(一時的なりと)避けている。

● 基準5ーー精神過程で、差異のもたらす結果が、先行する出来事の変換形(コード化されたもの)て見なされる

 最初におさえておくべきことは、いわゆる”外界”におけるいかなる物体も出来事も差異も、それらに応じて変化するだけの柔軟性をそなえたネットワークの中に取り込まれさえすれば、情報の源となりうる、ということである。

 ちょうど二つの隣り合った整数間が非連続であるように、デジタル・システムにおける”反応”と”無反応”の間は非連続である。”イエス”と”ノウ”の間は非連続である。

 発芽から間もない植物は光の来る方向へ曲がっていく。明るさの差の作用で明るい側より暗い側の成長が促進され、結果的により多くの光が得られる方向へ曲がっていくのである。これは差異に導かれた一種の歩行だと言ってよい。

 生物の成長を例にとって言えば、成長地点で起こる形態形成のありようが、その時点の成長面のありようによって決定される、という場合である。

 つまり積み上げられるものの形を決定するものは、それまでの成長の形ということになる。

 われわれの生活の中では、知覚はおそらくつねに部分の知覚である。部分を知覚して、そこから全体を推測する。そして、後に他の部分が提示されるに及んで、その推測が確証されたり崩されたりするーーすべてその繰り返しである。われわれの前に全体が提示されることはあり得ない。全体が提示されるには、直接[無変換]のコミュニケーションに依らなくてはならない。

● 基準6ーー変換プロセスの記述と分類は、その現象に内在する論理階型のヒエラルキーをあらわす

 コンテクストについての学習は、複数の異なるコンテクストーー自分の行動とその結果とが各試技ごとに異なる二つ以上のコンテクストーーを引き比べることで得られる情報を持って、初めて可能になるのである。異なる経験を集めた一つのクラスの中から、ある規則性が引き出され、見かけ上の矛盾が超克されるのである。

 探究の”目的”は探求自体の是非を知ることではない。探究の対象に関する情報を得ることである。探求自体を扱うケースと個々の具体的なケースとでは性質がまったく異なるのである。

 ”犯罪”とは、実は”探求”同様、複数の行為が結び合わされる様態を指す言葉である。したがって個々の行為を処罰することで犯罪が消滅すると期待しても望みは薄い。何千年もの間、犯罪学を名のる学問は、ごく単純な論理階型の誤認をひきずっているのだ。

 カワウソの遊びの観察から始めて、同様の行動の分類を人間たちがどのように行っているかという問題に研究を進めた私は、最終的に、統合失調症と呼ばれる人間の病の症状のいくつかは、やはり歪められたロジカル・タイピングに由来するという考えに行きついた。この混乱した論理レベルの膠着がダブルバインドである。

 われわれ人間は自分たちの論理が絶対であることを望むようだ。論理の絶対性を前提として行動し、それがそんなに絶対的なものでもないらしいことが、わずかでも示唆されると、パニックに陥るようだ。

 死とは循環の崩壊、自律の破綻であると。

 意識の問題は、より不明瞭である。

 知覚のプロセス自体は無意識のものだがその産物は意識されうる、と言ったときだけである。

● ーー原注

 バークリーは知覚されたもののみ”リアル”なのであって、誰にも音を聞かれることなく倒れた木は音を立てなかったのだと論じた。それを私流に言い換えれば、「隠された差異、つまり理由はともかくちがいを生まぬ差異、は情報ではない」となる。”部分”も”全体”も”木”も”音”も、引用符つきでこそはじめてそのようなものとして存在する。”木”を”空気”や”地面”と、”全体”を”部分”と差異づけているのはわれわれ自身なのだ。ただし”木”は生き物であり、それ自身ある種の情報を受容しているーー例えば”乾いている”と”湿っている”の区別をしているーーかもしれない、ということも忘れてはならない。

『精神と自然 | 生きた世界の認識論 』グレゴリー・ベイトソン 著/著、佐藤良明/訳より抜粋し流用。