mitsuhiro yamagiwa

Ⅴーー重なりとしての関係性

 精神の内には、時間もなければ空間もない。”時間” “空間” という観念があるばかりである。とすれば、個人を区切りとる境界が仮に存在するとしても、それは当然空間的な境界ではなく、集合論の図に使われる輪か、漫画の吹き出しに近いもの、ということになろう。

 実生活のコンテクストをつかむ学習は、一個の生き物の中で論じられるものではなく、二個の生き物間の外的な関係性の問題として論じなければならない。そして関係とは常に、二重記述の産物である。

 相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼のように、それぞれの単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作っているーーというふうに考え始めることは、発想として正しく大きな前進だと言える。その二重視覚こそが関係性なのだ。

 関係性は、一個の人間の内側にあるものではない。一個の人間を取り出して、その人間の”依存性”だとか”攻撃性”だとか”プライド”だとかを云々してみても、何の意味もない。これらの語はみな人間同士の間で起こることに根差しているのであって、何か個人が内に持っているものに根差しているのではない。

 両眼で見るところから奥行きという新しい次元の情報が得られるのと対応して、関係を通して行動を(意識的であれ無意識的であれ)理解するところから、新しい論理階型に属する学習を得ることができる。

 プライドとは、見物人の与える条件つきの讃美プラス行為者の反応プラス一層の讃美プラスその讃美の受容……(どこまで伸ばそうとお好きなように)である。

 たとえばプライドは讃美を糧としているが、讃美は条件次第でどうとでも変わる。そしてプライドの高い人間ほど相手の軽蔑を恐れる。ということは、相手側からしてみれば、その人間のプライドを減じる手立てはないのだ。讃美をやめて軽蔑を示したところで、相手のプライドはますます強化されていくだろう。

 プライドに限らず、この論理階型に属する例は、一般に自己補強的 self-validating な傾向を持つ。

●一ー”汝自身を知れ”

 外界についてのいかなる知も、いわゆる自己知から部分的にであれ引き出される他はないーーこの点は間違いあるまい。

 仏教では、自己とは一種の作りものだと教える。

 そのためには、”自己”という概念をとりあえず、一種の梯子のようなものとして、受け入れておくと便利である。

● 2ーートーテミズム

 多くの民族は、自分たちの社会を考えるさい、自分たち人間だけで構成しているシステムと、動物も植物もすべて包み込むより大きな生態学的・生物学的なシステムとをつき合わせて得られた情報に頼る。つまり彼らの思考は、二つのシステムの重なりの中で形成(文字通りインフォーム)されるわけだ。この類比には、実際に似ている部分もあれば、幻想によるこじつけの部分も、また幻想が社会成員にとらせる行動によって、現実に二つのシステムが似てくるという部分もある。

 社会システムと自然界とをこのようなアナロジーで捉えること、これが文化人類学でトーテミズムと呼んでいる宗教にほかならない。

 トーテミズムの持つこの自己誇示性が肥大していくにつれて、自然界との結びつきという本来の雄大な世界観は失われ、つまらぬ語呂合わせのみが栄える事態となる。

 トーテミズムが自分について知らせることは、かくも非人視覚的なのだろうか。

 いかにして古い智慧が利己心にすり替わっていったのか、いかにして家系の象徴たる動物が兜や旗の文様に堕していったのか、いかにして自然界の動物の原型同士の関係が忘れるに至ったかを。

● 3ーーアブダクション

 ある記述における抽象的要素を横へ横へと広げていくことをアブダクションと呼ぶ。

 隠喩、夢、寓話やたとえ話、芸術の全分野、科学の全分野、すべての宗教、すべての詩、(すでに見た)トーテミズム、比較解剖学における事実の組織ーーこれらはみな、人間のマインドの領域内で起こるアブダクションの実例、もしくは実例の集体である。

 われわれの認識論が少しでも変化するとき、われわれのアブダクション・システム全体が変化せずにはいないだろう。そのとき、思考を不可能にする混沌の脅威を、われわれは乗り越えねばならない。

 すべてのケースにおいてアブダクションとは、事物なり出来事なりシークエンスなりを、二重ないし多重に記述することと考えてよいだろう。

 相互に支え合う前提の織りなす果てしなく複雑なネットワークの中に捕らえられて生きること、これはすべての人間に共通の宿命だろう。逆に言えば、変化が起こるためには、この前提網の内部に、さまざまな弛緩と矛盾ができることが、どうしても必要だということである。

 自然界でも、そしてそれを映しているわれわれの思考過程でも、アブダクティヴなシステムは、実に広大な領域に広がっているのではないだろうか。

 これまで「二重記述」の名で呼んでいたものが、ここで二重要件または二重規定として現れたわけである。進化はこの板挟みの中で進行する。存命を模索する生物は、つねにこの二重の規定の下で変化していかなくてはならない。生物内の内的要請は隅々にわたって保守的なものだ。生存のためには、あまり大きな飛躍は禁じられる。逆に、変わりゆく環境の方は、時として有機体がその保守性を放棄して変化することを強いる。

『精神と自然 | 生きた世界の認識論 』グレゴリー・ベイトソン 著/著、佐藤良明/訳より抜粋し流用。