mitsuhiro yamagiwa

2023-08-30

それぞれの〈それ〉

テーマ:notebook

第四章 種=横断的ピジン

 それぞれの〈それ〉は、ほかのそれと境を接する。〈それ〉は、ほかのそれと境を接することによってのみ存在する。ーーマルティン・ブーバー『我と汝』

 他なる存在の観点を受け入れることは、諸自己のたぐいを分け隔てる境界をあいまいなものにする。一緒に生き、互いを理解しようとする試みのなかで、例えば、イヌと人は、何らかの共有された種=横断的な慣習行動をますます分かちあうようになる。

 種=横断的な意思疎通は、危険な取引である。一方では、人間的な自己の完全な変化は避けるようにしてーー誰も永遠にイヌになることは望まないーー

 アヴィラの人々は、そのような危険を軽減するために、いくつもの種=横断的な意思疎通の策を巧みに利用する。

あまりに人間的な

 私たちのかなたにいるものたちとの関係に注意を向けることで、人間的なるものをより広く理解することを目指す人類学にとっては、諸存在がとりわけ人間的なるものからも影響されうるありさまを通して、そのような関係を理解することが必要である。

 象徴とは、(地球上で)人間だけにある。道徳もまた弁別的に人間的なのである。道徳的に考え、倫理的に行動するには、象徴的な指示が必要だからである。ありうる未来におけるふるまいーーを再帰的に考えるには、世界から、そして世界内での活動から、瞬間的に距離を取る能力が欠かせない。象徴的指示を通じて、この引き離しが行われる。

 人間的なるものを超えた人類学を思い描くには、存在論的に道徳性を位置づけなければならない。つまり、いつの時点から、どこから、道徳性が存在するようになったのかを正確に把握しておかなければならないのである。

道徳性は価値に対して創発的で連続する関係にある。価値は人間的なるものを超えて広がる。

 私たちの道徳世界が非人間的存在に影響を与えるのは、正確には、非人間にとって良いものもあれば悪いものもあるからである。

 非人間にとって良かった悪かったりするものには、私たちにとっても良かったり悪かったりするものがある。

 私たち人間は、私たち自身を生み出し永続させるような多様な非人間的存在から、生み出されたものである。

 私たちの細胞は、ある意味、そのものが自己である。また、細胞内小器官はかつては自由に=生きるバクテリアの自己であった。つまり、私たちの身体は、巨大な諸自己の生態学なのである。これらの諸自己は、創発する諸特性(人間の場合でいえば、道徳的に思考する能力のような特性)を持つより大きな諸自己に包摂されるとはいえ、それ自体が道徳的なふるまいの座になることはない。

 私たちは、ハラウェイが「重要な他者性」と呼ぶものとはっきりと向きあうことになる。そこで私たちは、根本的に(重要なまでに)他者である他者性に直面するーーただ、その他者性とのあいだに共通の尺度がないこともなければ、その他者性は「知覚不能」になることもない、ということは補足しておこう。それにもかかわらず私たちは、根本的に私たちではないこれらの他者たちと親密な(重要な)関係に入りこむ道をそこにこそ見出すことができる。私たち自身てはないこれらの自己の多くはまた、人間的ではない。すなわち、象徴的な生きものではない(つまり、道徳的判断を下す座でもないことを意味する)。それゆえ、これらの他者は、自分たちに耳を傾ける新しい方法を見つけるように私たちに迫る。言いかえれば、他者性を持つ存在は、より公平でより良い諸世界を想像し、実現する助けとなる仕方で、道徳世界のかたなたを考えるように私たちに迫る。

 他なる諸自己が住まう世界にいかに生きるのかを見出すことに細心の注意を向ける、より射程の広い倫理的実践は、他なる諸存在とともに生み出そうと、私たちが想像し、そのように努めるありうる世界のひとつの特徴となるだろう。

 記号過程と道徳性は同時に考察されなければならないのである。

 「あまりに」という修飾語は、(「とりわけ/弁別的に」とは対象的に)価値中立的ではない。「あまりに」は、それ自体の道徳的判断を伝える。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳