mitsuhiro yamagiwa

著者インタビュー

希望の資源

 化石燃料についてよくよく考えてみると、じつはわたしたちの方こそかれらの道具になっているということが、次第にあきらかになってきます。化石燃料は、あまりに根本的な仕方で人間の生活と網目状に絡まりあって(enmesch)きたので、もはやこの手のエネルギーのしがらみから逃れることなどとうてい想像もできなくなっているのです。ですから、人間ならざるものの世界が実際いかに巨大で、わたしたちの現実がその無数の網目のなかにいかにして絡めとられているかということを理解しようと試みることは、とても重要なことなのです。そこで、わたしたちの物語作家=語り部(ストーリー・テラー)には、わたしたちの現実に組みこまれたものとして人間ならざるものの声が〔物語のうちに〕聴きとられるようにするという、じつに重大な責務があるとわたしは考えます。ただ、この課題とながらく格闘してきた者としてひとつ言っておきますと、こういった試みを推し進めようとする作家は、芸術や文学の業界において周縁へと追いやられることになります。なぜなら、人間ならざるものとつながっていこうとするならばーーすなわち、それら諸存在は死んでいるのではなく、意図をもち、話し、意味を生み出すことができるという見方を受け入れるならば、『ブルジョワ的真剣さ」とでも呼ばれうる態度と決別する必要があるからです。そして、そうしたとたんに、現代思想の基礎となる思考と根本的に切断されるのです。

訳者あとがき

 「〈全体〉は〈メッシュ〉であり、それは中心も縁もない、とても奇妙で徹底的に開かれた形態をとる」ものとされ、それが「〈思考しえぬもの〉そのもの」である理由は「(メッシュ〉が「巨大」すぎるというだけではなく、同時に無際限に微小(infinitesimally small)であることに起因する、と説明がなされている。〈全体〉を真とするヘーゲルが前提する「メタな視点」ーー”going-meta”『ハイパー・オブジェクト』ーーをそもそも受け入れず、(ライプニッツ=ドゥルーズ的な)無際限に微小な=微分的な(infinitesimal)「襞」に徹底的に巻き込まれていこうとする態度と言えるだろう。

 ここで「文化」の出番である。〈全体〉を俯瞰する立場から個物を対象=客体として分析・解剖し、そこに法則性や再現可能性を発見・定着しようとする「科学」的態度ではなく、〈メッシュ〉の連続性のうちに徹底的に巻き込まれ、その主客未分の海を航行するなかで〈存在〉の不気味な実相ーー「なにものにも還元できない神秘的ななにか」ーーを〈認知=再認(re-cognize)するような想像力をたのむ態度、その想像力の束としての「文化」が問題となる。 

 すなわち「ブルジョワ的」な現実把握によって貧困化するーーこれが、「気候変動の危機はまた、文化の危機であり、したがって想像力の危機でもあるのだ」という命題の背景をなす大きな物語である。

 つまり、気候変動の危機が〈思考しえぬもの〉である理由は、かならずしもそれ自体において認識不可能であるからというわけではなく、むしろ、現代の(「ブルジョワ的な」な)「文化」によってその実相を〈認知=再認〉する能力が差し押さえにあっているという点にある、というのだ。

 そういった(かまえ〉を(かたち〉にする技法は、この惑星上のさまざまな文化・伝統において培われてきた。

〈存在〉の絶対的な不思議へと一気に=ただしく到達するのは、あるいは〈うたう〉〈となえる〉〈いのる〉といった「垂直の言語行為」によるほかないと思われるかもしれない。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳