mitsuhiro yamagiwa

 孤立と独りぼっちであることは同じものではない。私は独りぼっちではなくても孤立しているーーつまり、私と一緒に行動する人間がひとりもいないから行為することができない状態にいるーーかもしれない。また私は孤立していなくても独りぼっちであるーーつまり、一人の個人として自分があらゆる人間的な付き合いから疎外されているように感ずる状態にあるーーかもしれない。孤立とは、人々が共同の利益を追って相共に行為する彼らの生活の政治領域が破壊されたときに、この人々が追いこまれるあの袋小路のことである。

 孤立の中でも人も人間の営為としての世界と接触を保っている。人間の創造性の最も根源的な形式は、共同の世界に自分自身の手による何ものかをつけ加える能力であるが、この形式が破壊されたときにはじめて孤立はまったく堪えがたいものになるのである。

 全体主義的支配は独りぼっちであることの上に、すなわち人間が持つ最も根本的で最も絶望的な経験の一つである、自分がこの世界にまったく属していないという経験の上に成り立っている。

 物質的感覚的な所与の世界についての私の経験すらも、私が他の人々と接触しているということに、つまり、他のすべての感覚を統制し制御しているわれわれの共通感覚(common sense 常識)に依存している。そしてこのコモン・センスなしには、私たちの一人一人は、それ自体としては当てにできない不確実なものである自分自身の感覚的与件の特異性の中に閉じ込められてしまうだろう。われわれがコモン・センスを持つからこそ、すなわち一人の人間ではなく複数の人間がこの地球に住むからこそ、私たちは私たちの直接的な感覚的経験を信じることができるのだ。

 孤独は独りきりでいることを必要とするのに反して、独りぼっちであることは他の人々と一緒にいるときに最もはっきりとあらわれてくる。

 独りぼっちであることと孤独との区別を最初に行なったのはギリシア生まれの解放奴隷で哲学者だったエピクテトスであったらしい。

 エピクテトスの見ているように、独りぼっちの人間(eremos)は他人に囲まれながら、彼らと接触することができず、あるいはまた彼らの敵意にさらされている。これに反して孤独な人は独りきりであり、それゆえ「自分自身と一緒にいることができる」。人間は「自分自身と話す」能力を持っているからである。換言すれば、孤独において私は「私自身のもとに」、私の自己と一緒におり、だから〈一者のうちにある二者〉であるが、それに反して独りぼっちであることの中では私は実際に一者であり、他のすべてのものから見捨てられているのだ。

 政治的には始まりは人間の自由と同一のものである。ーー「始まりが為されんために人間は創られた」とアウグスティヌスは言った。この始まりは一人一人の人間の誕生ということによって保障されている。始まりとは、実は一人一人の人間なのだ。

原註

はじめに(一九六八年の英語分冊版より)

 全体主義政権がその隠れもない犯罪性にもかかわらず大衆の支持によって成り立っていたという事実は、たしかにわれわれに非常な不安を与える。それゆえに、往々にして学者がプロパガンダや洗脳の魔術を信じることでこの事実を認めるのを拒否し、また政治家が、たとえばアデナウアーがよくやったようにこの事実を頭から否定しとしまうのも、驚くに当たらない。

 全体主義に対する大衆の支持は無知から来るのでも洗脳から来るのでもないことは、まったく明白である。

 物質的な国力と組織の力とが競合し、あるいは事実と虚構が競い合う場合には、後者が敗れることもあり得るわけで、これは第二次世界大戦中にドイツでもロシアでも起こっている。

 物質的な国力と組織の力とが競合し、あるいは事実と虚構が競い合う場合には、後者が敗れることもあり得るわけで、これは第二次世界大戦中にドイツでもロシアでも起こっている。

第十一章 全体主義運動

「人間は自然の鉄の論理に反抗しようとすれば、彼みずからもまた人間としての存在をそれのみに負うている根本原理と戦うことになる」。『わが闘争』

ローベル・ライの言葉によれば、イデオロギーは「教えられるものではなく」「学ばれるものでもなく」、ただ「訓練され」「練習される」ものである。

『新版 全体の主義の起源 3』ハンナ・アーレント/著、大久保和郎