語の超越ーー『ビフュール』をめぐって
ナンセンスがこの世でもっとも平等に分配されたものなのだ。
ミシェル・レリスはみずからの芸術の手法を私たちに明かしてくれる。その手法とはビフュールーー逸脱・分岐(bifur)と抹消(biffur)ーーで、それらは書物の題名になると共に、観念連合のこの驚嘆すべき復権を意味あるものたらしめている。なぜ逸脱かというと、感覚や語や思い出は、当初歩んでいた方向から不断に逸れて思いがけない小道に踏み入ることを思考に促すからだ。なぜ抹消かというと、感覚や語や思い出といったこれらの要素の一義的な意味はつねに修正されて過剰なものと化すからだ。ただ、こうした逸脱や抹消において問題なのは、新たに開かれた未知を踏破し、修正された意味に固執することであるよりむしろ、思考が自分とは別物に豹変するその特権的な瞬間において、思考を捕らえることである。
意味するという機能を観念連合に帰することに、私たちは慣れている。
思考はそもそもビフュールでありーー言い換えるなら、象徴である。
思考が象徴的であるからこそ、諸観念は互いに接し合い、連合の網状組織を形成することになる。
抹消の水準で把握された観念連合はこのように、表象と同一性という古典的な範疇を超えて、一個の思考と化す。
抹消の曖昧さはむしろ空間を形成しているのだ。
空間が諸事物に住まっているのではなく、諸事物のほうが、その抹消によって空間を描き出すのである。そして今度は、各々の事物の空間がその容量を捨て去っていく。
完成ではなく未完成が、逆説的なことに、現代芸術の根本的な範疇となろう。
しかしながら、抹消のゲームにはらまれた空間性は、それがはらむ視覚的要素に由来するのではなかろうか。
現実の美的本質がはらんでいる象徴性は、視覚的経験に固有な性格によって説明されるのではなからうか。結局のところ西洋文明は、この視覚的経験へと一切の精神の営みを還元してしまったのではなかろうか。視覚的芸術は諸観念と係わる。それは光であり、明晰さと判明さを探し求める。それは開示されたもの、現象に行き着く。すべてがこの経験にとっては内在的なのである。
見ること、それは全面的にここにあるような自足した世界のうちに存在することである。与件を超えたどんなヴィジョンも与件のうちにとどまっている。空間の無限も、記号が送り返されるシニフィエの無限と同様、あくまで此岸のものである。ヴィジョンとは、それによって達せられた存在がまさに世界として現れる、そのような存在との関係である。音もまた直観に供され、与件となることができる。この点に他の諸感覚に対する視覚の優位が存しているのは言うまでもない。視覚のこのような優位にはまた、芸術の普遍性が立脚してもいる。自然の美を成し、自然を鎮め、それを落ち着かせるのもこの優位である。芸術はいずれも、音響芸術でさえ、沈黙を生み出すのである。
沈黙は時に疚しさゆえのものであったり、重苦しい沈黙であったり、ひとを怯えさせる沈黙であったりする。美の完成と平穏にもかかわらず、そしてまた、それを超えて、誰かと関係をもたなければならないという欲求、それを私たちは批判への欲求と名づける。
実際のところ、音のうちにはーー聴取と解された意識のうちにはーー、視覚と芸術のつねに完成された世界との断絶が存している。音はそのすべてが反響である、炸裂音であり、騒々しさである。視覚において、ある形式がある内容と結びついて内容を飼い慣らすのとは逆に、音は感性的形式が自分自身をいわばはみ出すことであり、内容を支えることができないという形式の無能力である。ーー世界の真の亀裂であり、それゆえに、ここなる世界は、視覚には転換不能な次元へと延びていくことになる。だからこそ音は象徴の最たるものでありーー与件の乗り越えなのだ。
真に音を聞くこと、それは語を聞くことである。真正な音とは言葉なのである。
言葉が肉と化すのを拒むその限りで、言葉は私たちの只中での現存を保証するのである。
〈他人〉の現存、それは私たちに教示する現存である。
平穏にここに休らう経験を、言葉はその美的自足性から、そのここらか引き剥がすのだ。
経験を引き合いに出しつつ、ことばは経験を被造物に変容させる。
批判の言語は私たちを夢から抜け出させるのだが、ーー芸術的言語は夢の欠くべからざる部分を成しているのだ。
書かれたものは歪曲された言葉、「氷結した言葉」であって、そこでは言語はすでに記録や遺物に変貌してしまっている。
表現は、自己のうちにあり、「自己のために」思考を維持することの不可能性を、ひいては、自我がそこで所与の世界を操るような主体の位置の不充足性を伴っている。
発語する主体は世界を自分自身との関係で位置づけることはないし、芸術家のように、自身の光景のなかにただ単に自分を位置づけることもない。そうではなく、発語する主体は世界を自分自身との関係で世界ならびに自己を位置づけるのである。
言語によってもたらされる豊穣さは、ミシェル・レリスにとっては結局のところ、思考された内容というその片割れによってしか測られることがないのである。
『外の主体』エマニュエル・レヴィナス/著、合田正人/訳より抜粋し引用。