mitsuhiro yamagiwa


発話行為の放遂

 かれらは、自分たちの企てを実現しつつ自分たちを物語っているのだ。できあがっていく歴史は、かれらを主人公にした物語なのである。というのもそこには二重の断絶が起こっているのであり、一方で、権力と知の主体であるもろもろの操作はそれだけきりはなされて自立化し、他方で、自然はもっぱらその操作の土台となりながら背後にしりぞき、汲めどもつきせぬその土台から操作の生産物が抜きだされ、ひきはがされてゆくのである。

  こうして、話されることばはたえることなく生まれ、生きつづけているのだけれども、そうやって生きてゆくには、社会文化的なエコノミーの支配をたえず「逃れ」、理性の組織化を、学校教育の影響力を、エリートの権力を、そして明晰な意識のコントロールを逃れつづけなければならないのである。  
  こうして外に生きている発話行為がなにかのかたちであらわれるたびに、手をうつべく、科学が動員され、社会がのりだしてくる。

  けれども、ここでたいせつなのはむしろ、こうした再制覇の試みすべての出発点(そして消失点)となっている事実、すなわち、語る(話す)ことと行なう(書く)ことのあいだにはずれがあるという事実である。ひとは、書くという企ての外部にある場から話しかけるのだ。人びとが話し交わす営みは、発話システムがつくられてゆく場の外で生起している。

  「ラングはもっぱらパロールを統御するためにある」ということを前提にしている。このテーゼ(それじたいソシュールの第一原理すなわち記号の恣意性に依拠するのだが)をさらに敷衍して、共時的なものと偶発的出来事とを対立させる派生命題がしめているのは、ソシュールが科学にまで高めて一般化したひとつの伝統があるということであり、この伝統が、二世紀にわたり、発話(記述しうる対象)と発話行為(語るという行為)の分断をエクリチュールのはたすべき任務の公準としてきたのである。


知られざる活動/読むこと

 オラルな伝統による聞きとりをとおして習得された文化の記憶の蓄積があってはじめて、意味を問うという姿勢がうまれ育まれてゆくのであり、こうしてめばえてくる姿勢が、書かれた文の判読によって、いっそうみがかれていったり、正確になったり、修正されたりするのである。

  意味作用というものはオラルな伝達からくるなんらかの予期(なにかを待ちうける)とか予見(仮説をたてる)からなっており、こうした意味作用が第一次的な土台となって、その後に書かれた資料を判読する学習をとおして徐々にこの土台が揺らいだり強化されたり、細部にわたって補強されたりしながら、読むということができあがってゆくのではないだろうか。文字に書かれたものは、すでに予見されていたもののなかから何かを切りとったり、浮き彫りにしたりするにすぎないのだ。

 「あらゆる読書はその対象を変える」

  読むという実践は、まだ十分に究められてないがあらゆる「エクリチュール」(たとえば、ひとはあるテクストを読むようにある風景を読む)を横切って滑ってゆく実践であり、こうした実践にかんしては痕跡が残されていないので、歴史学や民俗学の方向に踏みこんでゆこうとする研究はごくわずかしかない。社会学になると文献はもっと多いが、一般に統計学的なタイプのものである。
 ともあれ、自分たちのつくりだしたテクストを横切って歩んでゆく人間の歩みの歴史は、大部分が未知のままにとどまっているのである。


社会的エリートの産物、「原」義

  読むという活動は、ページを横切って迂回しながら漂流する。テクストを変貌させつつ、その歪んだ像をつくりだす目の旅だ。

  テクストは読み手という外部との関係を結んではじめてテクストとなり、二種類の「期待」が組み合わされてできあがる共犯と策略のゲームによってはじめてテクストとなるのだ。つまりひとつは読みうる空間(字義性)が組織する期待であり、もうひとつは、作品の実現化に必要な歪み(読むこと)が組織する期待である。

  記号表現をもとにコード化してゆく操作が意味をつくりだすのであって、それゆえ意味というものはなんらかの委託や「意図」、あるいは作者の活動などによって決定されるものではないのである。

  テクストの自律的意味を他から隔ててそびえたたせ、それをもって「作品」の内奥の秩序とするあの城壁は、いったいどこからうまれてきたのであろうか。

  この手のフィクションは、消費者を服従せんがためものなのだ。というのもこのような障壁が建てられてしまうと、かれら消費者は、とっておきの宝の秘められた「冨」を前にしてかならず不忠か無知かどちらかの科を負うことになるからである。作品のなかに隠された「宝」、意味の詰まった宝庫というこのようなフィクションは、あきらかに読者の生産性にではなく、社会制度にもとづいてつくりあげられたものであり、この社会制度が読者とテクストの関係を多元決定しているのである。読者は力関係(主人と奴隷とか、生産性と消費者とか)によって言わば打印され、その力関係の道具にされているのである。

  おのずと複数の読者に身をさしだすはずのテクストは、文化的な武器に変えられ監視付の猟場にすり変えられてしまって、ある法の口実となり、この法が社会的権威をそなえた専門家や聖職者たちの解釈を「原義」として正当化するのである。

  こうしてかれら解釈者たちは、自分たちの読みかた(これもまた正当な)を正統的な「原義」に変えこれ以外の読みかた(おなじように正当な)を異端(テクストの意味に「かなって」いないもの)か、さもなくば無意味(忘却に付すべきもの)かのいずれかにしてしまう。こうしてみれば、「原」義などというものは、ある社会的権力のもてる力の徴であり、エリートのもてる力の徴なのである。

  制度が崩壊してゆくにつれ、制度が隠していたテクストと読者とのあいだの相互関係があらわになってゆく。あたかも制度が身をひいたおかげで、読者によってうまれる「エクリチュール」のはてしない複数性がみえてくるように。読者の創造性は、それをおさえつけていた制度が縮小してゆくにつれて増大してゆく。
 社会的階層序列化は読者をエリート(または半エリート)のほどこす「教化」に従わせるようにしむけており、読むという操作は文化的正統性に空いた穴に自分たちの創意をしのびこませながら、こうした教化をかわしている。

『日常的実践のポイエティーク』ミシェル・ド・セルトー/著、山田登世子/訳より抜粋し引用