第21節 ウィーナーのライプニッツ主義
人間の精神とは記号の結合にもとづいた作動の集合であり、推理とはそうした作動の組織化である。ライプニッツにいわせれば思考とは計算であり、これは記号操作と類比的であるばかりかこれにかなりの程度依存しているということが知られている。
つまり有限の中に無限を刻印するということである。デカルトにいわせると、理性が完全であるには有限の段階を含んでいなければならず、精神がそれに則して運動できるようになっていなければならない。
ライプニッツにおいては、モナドは「無機的」でも機械的でもなく、有機的で関係的なのである。事実、ライプニッツにしてみれば無機的な実体などない
「一七世紀と一八世紀初期が時計の時代であり、一八世紀後期と一九世紀が蒸気機関の時代であるとするならば、現代は通信と制御の時代である)
フィードバックとは何か。それは簡単にいえば、実際の出力と予想された出力との差異をシステムに送り返すことで作動を改良するということである。たとえば、われわれが何か対象を掴もうとして手を伸ばすとき、筋肉や運動や知覚の間に多数のフィードバック循環が生じ、このフィードバックのおかげでわれわれはみずからの位置や動作を調整することができる。
民衆が戦争や飢餓に苦しんでいるということは、皇帝や王朝が天命を失ったことの指標であり、したがってそれは崩壊する運命にあるというわけである。ウィーナーはこれもまた一つのフィードバックであると強調する。
第22節 サイバネティクスのサイバネティクス
アルゴリズムというのは最も効率的にテロスに到達できることがよしとされるもので、ようするに実行時間を計測することで評価されるのである。*真でないというのは、思考とはつねに何ものかについての思考であり、この何ものかとはつまり志向性の対象であるが、その実存を具体的に把捉するということはそのテロスを把握するということにほかならないからである。
反省性は自己意識を超えている。というのも再帰性は個別の自己意識に制限されてはいないからである。なにしろ思考の思考が存在し、思考の思考の思考も存在するのである。何が思考というものを思考の思考そして思考の思考の思考へと参入させるのか。情報である。
第23節 弁証法の情報
続けてサイバネティクスのもう一つの鍵概念ーーすなわち情報ーーが根本的に偶然的で再帰的であることとを示したい。
ヘーゲル弁証法の情報とは何か。
エントロピーの増大とはすなわち、より可能でないものからより可能であるものへの運動にほかならない。
訪れる出来事は驚きを含んでいればいるほどより情報を含んでいる。
ウィーナーのいう情報-エントロピーの関係は熱力学に由来する。
「有機体はメッセージとして見ることができる。メッセージがノイズと対立しているように、有機体はカオスや崩壊や死と対立している」。
情報とは(一つのシステムとして考えられた)個体において何らかの効果を産出する差異なのであり、これは個体化の過程に導くか少なくともそれに貢献することがある。この不一致は網膜像の形成を霊に説明される。両眼の網膜像は同一でないことが知られているが、情報としてのこの不一致のおかげでこそ、像の個体化つまり一つの統一された像の形成が起こるというわけである。
情報が再帰的であるというのはまさしくベイトソンいわく情報とは差異をつくる差異にほかならないらからである。
ベイトソン自身の言葉でいうなら、再帰は自律性の定義の中心にある。
ベイトソンにいわせれば情報とは何よりもまず差異であり、そしてそのような差異はパターンにより産出される。
情報は差異によって、つまりパターンに取り込みきれない新しさによって産出される。
知識するということは、彼にいわせれば、再帰的な過程であり、そこには差異が絶えず導き入れられなければならない。
知識するということは再帰的なのである。
知識するということはみずからに回帰することで未来に投企するという意味で反省的なのである。
シモンドンにいわせれば、恒常性がつねに平衡を追求しているというのは、つまり死を追求しているということを意味しているのである。同様にベイトソンにいわせれば、恒常性は、あたかも生物に似たものであるかのように見せかけながら、そのじつむしろ時計仕掛けに似たものなのである。
差異は差異をつくることができてはじめて再帰的なのである。
情報が差異をつくる差異であるのは、それが偶然的でも再帰的でもあるからにほかならない。
ベイトソンは学習も進化も根本的に確率的な過程であると考えている。それは学習が再帰的でも偶然的でもあるという意味である。
技術は一般に偶然性を消去しようとするが、線形の因果性に基づきそれゆえに偶然性の影響を受けやすい技術対象と比較すると、再帰的な様態というものは偶然性を効果的に統合することで新たな何かを産出することができる。別の言い方をすれば、それは絶えざる偶然性を要求するのである。
『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。