mitsuhiro yamagiwa

2022-10-31

一と多

テーマ:notebook

第24節 計算不可能性とアルゴリズム的偶然性

 サイバネティクスのフィードバックは「等結果性」を許容する。つまり個別の状況に応じて異なる複数の経路で同じ目的に到達することができる。しかし、そこにおいて意志が合理性と緊張関係にあるようなほんとうの自己目的性を許容しない。

 計算不可能性について、偶然性が反省に吸収できない場合ーーたとえば巨大な宇宙的破局ーーや、フィードバックの論理を越えて外化されたものが利用不可能な偶然性をもたらす場合、つまり弁証法が行き詰まるという、アルゴリズム的破局を考えてみるのもよいかもしれない。*失敗と破局はわれわれを、それまでのシステムには統合できないより広い実在に向かわせ、別のシステムを発見するように強いる。

 そこでは外化されたもののほうが規定力を得ることで、同化の能力そのものを破綻させているーーつまりもはや理性が限界を設定するのではなく、その逆になっているのである。

第三章 組織化された無機的なもの

 還元主義もときには理解のために戦略として必要となることもあるけれど、それはあくまで方便であって実際に等価であるわけではない。

 とくにヘーゲルにおいては生命は概念と同定されていた。一九四八年にサイバネティクスが登場すると、概念と生命の同一性が再び主張されるようになり、それにともない両者の関係を外化の観点から再考する必要性も主張されるようになったのである。

第25節 有機体論から器官学へ

 機械化も、知識の総体ではなくあくまで一形式として認められる限りにおいては、何もひどい間違いというわけではない。機械論から有機体論へという知識の変遷が西洋思想の伝統において一つの重要な転換であったことは承知している。ただ、生命の形式と機械の形式を等価と見なすのは誤りであろう。

 すなわち一方で評論家たちは機械的なものと有機的なものを対立させている。有機的な人間の方が優れていると考えているからこそ彼らは敗北を嘆くのである。他方で彼らは機械がいまや人間に置き換わる可能性があるということで機械と有機体の等価性を肯定している。なにしろ今日われわれが目撃しているのはサイバネティクスが可能にしたほかならぬその傾向の発端なのである。

 或る認識論的な視点から見ると、テクノロジーと自然はもはや二つの峻別された項目ではなくなっている。かかる自然の理解にはすでに一つの技術的な形式が露呈している。つまりそれはもはや純粋で素朴な第一の自然ではなく、サイバネティクス的な自然なのである。

 有機体論における中心的な問いは「全体」の問いであった。いったいわれわれはいかなる意味で全体について語ることができるのであろうか。全体なるものは、一方では、諸部分の機械的な構築に反して働き、均質性から不均質性への進歩、対象からシステムへの進歩を特徴づけている。他方では、それは目的論を含意してもいて、そこでは諸部分がそれぞれの把握を超えたところで一つの目的因に向けて作動している。ここにベルクソンとガンギレムの器官学の中心的な問いが横たわる。すなわち、どうすれば創造的な全体というものを捉えることができるのか。

第26節 形式と火、あるいは生命

 すなわち、すべてのものは一と多(多元性)からできているということ、つまりそれは無限者(aperion’ 普遍性)と有限者(to peras’単一性)をみずからの内で統一しているということを。かくしてわれわれもまた万物がこのように設えられているからにはどの一つの対象にも一つの理念を前提しこれを探求しなければならないのである。『ピレポス』

 ここでのわれわれの狙いはシェリングの自然哲学を脱構築することではなく、彼の自然哲学において思考されているものと思考されていないものをともに再考することにあり、そうすることでカントの『判断力批判』以後に哲学することの新たな条件を論証しようとしているのである。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。