Ⅲーー重なりとしての世界
わしが三度言うことは真実だ。ーールイス・キャロル『スナーク狩り』
外界の一部としての自分
● ケース1ーー差異
差異が生まれるには少なくとも二つの何かを要するということである。差異の知らせーーこれはわれわれは〈情報〉と呼ぶーーが生じるには、何らかの意味で同一ではない二者(実在しようとしまいと)がなくてはならない。そしてまた、その差異の知らせが、脳(ないしはコンピュータ)のごとき情報処理体の内部における差異としてたち現れてこなくてはならない。
ここで一つ深遠な問いに突き当たる。互いの間に、両者の違いが違いを生むことで情報となるような”最低二つ”のものとは一体何物か。それらを単独に取り出しても、知覚も認識もされぬではないか。一体存在しているのか。
では一体、感覚の素材とは何だろう。「時間にそって値を変えていく何らかの変数があって、それが一組の値の比に対応して反応を変化させるような感覚器官に提示されるときに感覚が生じる」と見るのが正解のようである。
● ケース2ーー両眼視覚
片方の眼で集められたデータともう片方の眼で集められたデータとの比較から何が得られるのか?ふつうは両眼とも外界の同一領域に向けられている。
一つの像で見える両眼視覚像も、実は脳の右半球前左前方部で合成された情報と左半球右前方部で合成された情報という、互いに対応する二つの部分から成っている。
より学理的な言い方をすれば、片方の網膜から得られる情報と、もう一方の網膜から得られる情報との差異が、別の倫理階型に属する情報をつくる、ということだ。この新たなレベルの情報が、視覚に新たな次元を加えるのである。
一般的に言って、異なるソースから来た、または異なるコード化を経た情報が合成されるときは、そこに何かしら比喩的な意味での”奥行き”が加わると言ってよい。
● ケース3ーー冥王星のジャンプ
人間の感覚器官は差異の知らせだけしか受け取ることができず、それも時間のなかの出来事(すなわち変化)へと変換された形でしか差異を知覚できない。
● ケース6ーー同義の異言語
いわゆる客観的情報の追加がまったくなくても、別の記述言語によって表し直してみることで、理解の度が増す場合がよくある。与えられた数字の定理を二通りのやり方で証明してみると、今どんな関係が示されているのか理解が深まる。というような例である。
言語は、表現媒体として、それ自体にいかなる情報も含んでいないのか?
● ケース7ーー二つの性
まず最初に、配偶子が二種類に差異化する。通常一方は固着性、他方は移動性である。引き続き、二種類の配偶子がつくり上げた多細胞の個体が二種類に分化する。
こうした分化の手順の各段階に、分裂と融合と性の二形とによる”情報の経済性”の問題が絡んでいるはずである。
● ケース8ーーうなりとモアレ
われわれは(ちょうど視覚障害者用ソナーのような)規則性のサンプルを各種持ち歩いていて、外界から入ってくる情報(規則的な差異の知らせ)を、それらにぶつけてみているのだろうか?例えば相手の性格をテストするのに、こちらからいわゆる”依存”という習性をぶつけて、反応を見ているとか?
人間ならずとも数秒の記憶を有する生物であれば、二つの異なった時間上の出来事を重ね合わせて比較することができるはずだ。そのような方法で処理できるものを、音律や音楽は含んでいるのである。
● ケース9ーー記述・トートロジー・説明
説明は、記述の中にすでに込められている情報以上のものを新しく与えることがない。それどころか、記述の中にあった情報のうちかなりの量が捨象され、実際には本来説明すべきことのほんの一部しか説明されないのが普通なのだ。にもかかわらず説明の重要性は疑うべくもないし、どう考えてみても記述の中に含まれる以上のことを、われわれに理解させてくれるとしか思えない。
記述と説明とは、データをまとめる二通りのやり方であり、厳密な議論において両者は、専門用語でトートロジーと呼ばれるものによって結びつく。
つまりトートロジーは、命題間のつながりにしか関与しない。トートロジーの出来不出来は、これらのつながりがどのくらい妥当であるかという一点にかかっているのだ。
これに対し、記述は情報を含むが、論理も説明も含まない。情報を組織するにあたって、記述と説明とを組み合わせて使うことに、人は何らかの理由で非常に高い価値を置いているのである。
説明には記述以上のものが求められ、そして説明は、最終的にトートロジーに訴える。トートロジーとは、さきに定義したように、命題間のリンクが必然的に妥当であるように結びついた命題の全体である。
アブダクションとは、他に関連した現象を求め、これも同一の規則の下に収まり、同一のトートロジー上にマップすることが可能だと論じていく作業である。
説明とは結局、トートロジーの網を張っていく作業である。そのトートロジー内のリンクが自分にとって自明と思えるほどの妥当性を持つことを確認しながら。しかしその妥当性は決して完璧なものにはなり得ない。
アブダクションは人々に大きな安らぎをあたえる。厳密な説明は往々にして退屈である。
私は片眼で見られるものと両眼で見られるものを見比べ、この比較において、両眼で見る方法では奥行きという新たな次元が得られるとした。しかし両眼で見るということ自体、一つの見比べ行為である。つまり、本章は見比べ方に関する一連の比較研究だったと言える。
エピステモロジーとはつねに、不可避的に、個人的なものだ。探り針の先端はつねに探究者の心の中にある。「知」knowingの性質をたずねる私はそれにどう答えるのか、という問いしか立ちえない。その問いを前に、私は、自分の知の営みが、生物界、生成の世界全体を織りなす広大な知の織り物の一つの小さな織り目だという信念に降伏するばかりである。
● ーー訳注
1 The difference which becomes information by making a difference 人の顔はみなあれほど違うのに、ハエの顔はみな同じに見える(make no difference)。外界の差異がイメージや観念の差異となって現れるのかどうかということを、英語の日常表現に引っ掛けたベイトソンの「情報)の定義ーーany differen that makes a differenceは、ベイトソン的宇宙における「内」と「外」との関係を言いえて妙である。
4 abductionは「仮説的推論」とも訳されるが、語源的にはab-(=away)とducere(=to lead)から成り、もともと連行、誘惑といった意味を持つ。deduction(演繹=「一般」から仮説を引き出して「個別」を説明すること)、induction(帰納=「個別」を「一般」への裏づけとすること)との対比で言えば、不可解な事実を説明するために仮設をもぎとってくる(あるいは類例から横取りする)というイメージである。つまりdeductionとinductionが一般的言明個別的事例という縦の関係におけるやりとりであるのに対し、abductionは横へ横へと広がっていく。
『精神と自然 | 生きた世界の認識論 』グレゴリー・ベイトソン 著/著、佐藤良明/訳より抜粋し流用。