mitsuhiro yamagiwa

2022-06-28

客観性の幻想の上

テーマ:notebook

Ⅰ ーーイントロダクション

鏡の向こう側

 (物質的である以上に)精神的で、(独自性よりも)相互の繋がりが卓越している生物界にあって、ただひとりヒトという種に属するものだけが完全に物質的な、他とは分離した個別的存在であるという奇妙な矛盾が。

 精神は空なのだ。マインドという物があるわけではない。マインドとは、それが生みだすアイディア[観念]の中にのみ存在する。だがそれらもやはり物ではない。ただ、観念も現象に内在する。

 コンテクスト=文脈は「意味」という、これまた未定義の概念とリンクしている。文脈なしには、言葉も行為も意味を持ちえない。これは人間たちの言葉によるコミュニケーションに限らない。

 機能を考えるということは、その器官に、生物とその環境との絶えまない相互反応に与えるものとしてーーつまり時間的コンテクストによってーー意味を付与することだ。

 大昔から観念の連鎖を製造してきた論理なるものは、物体と生物、部分と全体からなる外的世界といかなる関係にあるのか?観念は現実に連鎖をなして生まれてくるのだろうか、それともこのリニアルな構造は学者や思想家たちによって二次的にかぶせられた代物なのだろうか?再帰的な"堂々めぐり”を拒否する論理の世界は、因と果の循環連鎖こそが原則であるような外的世界といかなる関係にあるのだろうか?

 論理には自己矛盾を生まずして再帰的な純化を論ずることができないし、量は複雑なコミュニケーション・システムの中では何ら本質的な関わりを持たないのである。

 進化の一歩一歩が既存のシステムに新しい情報をつけ加えていく。次々に層をなして積み上がっていく情報同士の組み合わせ、その調和と不調和の中から、生存に関わる数多くの問題が生み出され、進化の方向が決定されていくのに相違ないのである。

Ⅱーー誰もが学校で習うこと

●その1ーー科学的は何も証明しない

 科学というものが一つの知覚による方法である、知覚から”意味”(と呼びならされているもの)を作っていく方法である、という前提の上に立っている。ところが差異のないところに知覚は生じない。われわれが受け取る情報はいかなる場合にも差異の知らせにほかならない。その差異の知覚は、しかし閾thresholdというものによって限定されている。あまりにも微妙な差異や、あまりにゆっくりと現れる差異は、知覚されない。それは知覚の糧ではないのである。
 一瞬先のことが予測できないのと同様、知覚の届く一歩先にある極微の世界も、宇宙の彼方の出来事も、地質学的に遠すぎる時代のことも、要するに観察できないものについて前もって知ることはできない。知覚による方法にほかならぬ科学には、真実かもしれないことの外在的で可視的なしるしを集め回る以上のことはできないのだ。

科学はprove[証明]せず、probe[探索]するのみ。

●その2ーー地図は現地そのものではなく、ものの名前は名づけられもの自体ではない

 人間の生活は、ある類型に属する非合理的な行動に、つねに、必然的につきまとわれることになる。われわれは事実として二つの半球を持っているのであって、この事実から抜け出ることはできない。二つの半球がそれぞれ違ったふうに作用する以上、人間の行動に理にかなわぬものが生じることは避けられないのである。

●その3ーー客観的経験は存在しない

 痛みや、外界の視覚イメージなどの感覚データの客観性を疑う人間が、少なくとも西洋文化の中に、ほとんどいないということは、やはり熟考に値する問題である。われわれの文明は、こうした客観性の幻想の上に深く根差しているのだ。

『精神と自然 | 生きた世界の認識論 』グレゴリー・ベイトソン 著/著、佐藤良明/訳より抜粋し流用。