第Ⅲ部
階級の趣味と生活様式
政治への発言権
ウィかノンかを考えたり、あらかじめ準備された回答のいずれに印をつけたりするように、たとえ最も初歩的な形であってもいいからとにかく発言しようとする傾向の強さは、自分は発言権をもっているのだという気持ちがどれくらいあるかに厳密に比例して決まってくる。
ーー組織的に動員された意見を表明した層は、高等教育を利用する人々とほぼ一致している。いっぼう孤立した行為者がいっさい他人に代弁してもらわずに、教育制度について明確で一貫した意見を自分で述べるにいたる確率は、その人が自分の〔子供による〕再生産をどの程度まで教育制度に負っているか、そして客観にも主観的にも、教育制度のはたらきにどの程度まで利害=関心をもっているかということによって決まる。
すなわち本当は一部の人々にしか提起されないような問題を、代表サンプルを抽出してあらかじめ準備した回答を記した調査票を与えるという、まったく非のうちどころのないすべての人々にたいして同じように押しつけてしまうと、じつは質問が提示される以前には存在しておらず、質問に出会わなければ表明されることもなかったであろうと思われる意見、あるいは別の形で、つまり正式の資格をもった代弁者を介しつ表明されていたならば、まったく別のものになっていたであろうて思われるような意見を存在させることによって、完全に人為的な産物を捏造してしまう可能性がきわめて高いということである。
それらはいずれにせよ、自発的に言葉にされ表示される可能性はほとんどなかったはずの意見なのだ。
政治的意見とは、それが含む真実に内在する力によって人々をとらえることのできる純粋な、かつ純粋に情報供給的な判断なのではなく、行動を通して実現へ向かおうとする野心的意図を含んだ一つの行動理念なのであり、それが文字通りに象徴的な有効性によって動員する集団の人数が多くて力が強いほど、それだけ実現への野心も大きなものとなる。換言すれば、政治的意見は必然的に集団の動員力と〔政治的な力として〕存在しようとする野心的意図を含んでいるので、その情報的内容によって定義されるだけでなく、それが文字通りに政治的な力として存在するための源泉となる〔社会的な〕力によってまた定義されることになる。
身分上の有能性から生まれる権威のある言葉、力強い言葉は、それが語っていることを実現するのに寄与するものであるが、これにたいしては、やはり身分上のものである無能性の沈黙が答える。この無能性は具体的には技術的無能力として実感され、無能な者は有能な者に、女性は男性に、低学歴者は高学歴者に、「話しかたを知らない」者は「話しかたの上手な」者に、それぞれ発言権を委託するようしむけるのであって、これはいわば見過ごされ承認された剥奪である。
技術的に有能であると認められている他の人々に政治的問題に関する責任を委託しようとする傾向は、その人の所有する学歴資本と反比例の関係にあるが、それは学歴資格(およびそれが保証するとみなされている教養)が暗黙のうちにーーその保持者によってのみならず他人によってもーー権威を行使する正統的資格とみなされているからである。
一方には政治は自分の分野ではないと認め、自分に与えられている形式上の権利を実際に行使する手段がないためにそれを放棄してしまう人々がいる。また他方には自分が「個人的意見」を、あるいは有能な人々の独占物である権威ある意見、影響力のある意見をもつことさえ望む原理があると感じている人々がいる。政治的分業についてのたがいに対立しながら相補的なこれら二つの表象は、さまざまな政治力「力」が階級間・男女間で客観的にどう分割されているかという状況をもろもろの性向や慣習行動や言説の中に再現し、それによってこの分割を再生産するのに寄与しているのだ。
つまり十九世紀の改革者たちは教育にたいして、その普及によって投票権をもった市民が増え、普通選挙が正常に機能する条件が整えられることを何よりも期待していたのだが(ジュール・シモンは言っている、「審判者は自分のなすところを知り、自らを啓蒙しなければならぬ」と)、実際にはむしろ教育は選別原理として機能する傾向を見せるのだ。しかもその原理はおおっびらに押しつけることがないのはもちろん、こっそり押しつけられることさえないだけにますます有効にはたらくのであり、そうやって選挙における民主主義への参加が実質的には不平等であるという事態を、そして当然成り行きとして政治的分業の全体を根拠づけ、かつ正当化しているのである。
「反省の趣味」と「感官の趣味」
嫌悪とは暴力によって強要された享楽、人をぞっとさせる享楽という、逆説的な経験である。自らの感覚に身をまかせる人々には見られないこのぞっとするような感情は、基本的には表象と表象対象との距離(そこに自由が現われてくる)が廃棄されるところから生じてくる。
要するにそれは、表象というものに備わった距離化する力を消滅させるのであり、換言すれば、感知しうるものへの直接的・動物的参入を宙吊りにする自由を、無効化するのである。嫌悪とは自由や人類や文化にたいするこうした二重の挑戦であり、いわば反・自然であって、それゆえぞっとするもののおぞましい誘惑と享楽とのアンビヴァレントな経験なのだ。そしてこの経験はあらゆるものを動物性、身体性、食欲と性欲、すなわち誰もに共通の、したがって通俗的なものへ還元し、全力をあげて抵抗する人々と、快楽に甘んじて享楽を味わう人々との差異を、すべて廃棄してしまうのである。
感受性という意味での自然はこうしたすべてを均等化するのだが、ただし、それは最も低いレベルに合わせてなのである(これはすでにハイデガー主義者たちの忌み嫌うあの「平準化」にほかならない)。アリストテレスの教えによれば、相異なるものどうしは、その類似点において、すなわち共通の性格において、たがいに差異化してゆく。つまり嫌悪というのは、ぞっとするような感情のうちに誰もに共通の動物性を見出すのであり、こうした動物性の上に立って、その動物性に対抗しながら、いわゆる道徳的卓越性がうちたてられてゆくのである。
したがって芸術作品は倫理的優越性をためすテスト、本当に人間的な人間というものを定義する昇華能力をはかるための、疑う余地なき尺度となる。というのも美学的言説の闘争目標、またその言説が本来の意味で人間的なものとは何かという定義を他人に押しつけるさいに設定している闘争目標は、結局のところ人間性を独占することにほかならないのだから。芸術が証明すべきもの、それはまさに人間と人間ではないものとの差異である。芸術の経験とは自然の創造の、つまり所産的自然ではなく能産的自然の自由な模倣であり、それによって芸術家は(そして芸術家を通して鑑賞者は)、もっぱら創造的天才の構築法則のみにしたがった「もう一つの自然」を作りだすことによって所産的自然にたいする自らの超越性を主張するのであるが、こうした経験は本源的直観ーーすなわち自分自身の規則や拘束以外にはいかなる規則や拘束も認めることなしに固有の対象を自由に生みだす創造的知覚ーーという神の経験に、最も近いものである。芸術的「創造」が生みだす世界は単に「もう一つの自然」であるばかりでなく、一つの「反・自然」でもある。
卑しい、粗野な、下品な、欲得ずくの、金銭ずくの、卑屈な、要するに一言で言えば自然な享楽を否定すること、それは同時に、昇華された、洗練された、上品な、無私無欲な、無償の、自由な快楽に満足するすべを知っている人々の崇高さを肯定することでもある。自然趣味と自由趣味との対立は、自然のままでしかない人々と、自らの生物学的自然=本性を支配する能力を示すことで社会的自然を支配しようとする正当なもくろみをあらわにする人々との間に、肉体と魂という関係を導入する。
『ディスタンクシオン Ⅱ 社会的判断批判』ピエール・ブルデュー/著、石井 洋二郎/訳より抜粋し流用。