mitsuhiro yamagiwa

2021-11-29

視点なき視点

テーマ:notebook

訳者あとがき

 すぐれた著作は、著者から離れた独立の生命をもつ。

 主知主義=観念論と経験主義=実在論

 一見不必要なほどの廻り道をたどる著者の叙述形態そのものが、著者の哲学態度の表現なのである。
 メルロ=ポンティが終始排斥してきたのは先ほども述べたように、「上空飛行」的態度である。

 ただたんに環境に密着して生きるだけでなく、距離において、こうした環境やそこにおけるおのれの姿を見返す能力をもっている。この能力こそ、人間の人間たるゆえんであり、言語や学問の可能性の条件なのである。

 学問は本質的に普遍的・客観的視点を標榜する。そしてこういう視点からーーつまり視点なき視点からーー捉えられた事物の姿ーー実は事物の関係的-記号的表象ーーを、その真の客観的な姿と見なし、現実の身体としてのわれわれが知覚する事物の姿を、一面的・主観的なものとなす。

 メルロ=ポンティが本書で示したことは、こういう学問的偏見が本末顛倒たるゆえんであり、「上空飛行」を可能ならしめる人間的な資質ーー「知性」「象徴機能」「範疇的態度」などーーの実存的基底の存在であった。

 「知性」とその諸観念、諸範疇は、出来合いの姿で人間に与えられているのではない。それは具体的な実存の一つの転調であり、こうした転調の可能性を蔵する振幅の大きさ、弾力性こそ、人間的生存の特色なのである。

 人間のみが、他の動物と違って「物」の観念をもつ。人間は現実を「物」の集まりとして、あるいは性質変化を規制する「法則システム」として捉える。

 知覚においてそのつど比類なき唯一性質・一回性において現われれる現実は、今や「理念化」されて反復可能な普遍的関係、物、法則となり、他面から見れば時空を超えた「意味のシステム」となる。こういう表象次元が人間の言語生活、社会生活から始まって、科学・哲学までも条件づけているのである。

 科学者は多くの場合、哲学的立場としては実在論をとり、認識論的には経験論者である。

 客観的存在は「物自体」ではなくて、知的構成の所産である。

 「存在」に「意味」が置き換えられる。

 知覚は本質的に不十全な知であるが、知覚の対象を十全な知覚の理想のもとに措定するのである。まず対象の措定は、知の完成という理想を動機づける。

 しかし知の理想のもとに、つまりその仮想的実現のもとに、あらかじめ対象そのものを措定してかかることは、われわれの記号的知・象徴機能の、生存における役割を忘れて、その所産を絶対化することでなくして何であろうか。

 意味としての主体は、直接外部からの作用を受けつけない。外部からの触発と見える印象にしても、意識においてこのように体験されるというにとどまり、結局はかかるものとして意味づけられているのである。意味構成の原理は意識主観のうちにある。

 「意識は何ものかについての意識である」といっただけでは、従来の主知主義から現象学を区別するのに十分ではない。

 視座を「現象」に置くことによって、従来の哲学を混乱させていた諸「問題」が、解決いや解消するのである。その多くは事象にそぐわない視点、理解の枠組をこれに押しあてたために生じた擬似問題なのである。「問題」の解消は文字通り自明となること、日常的な理解水準で当たりまえとなることを、意味するものではない。

 知が生から離れるいなや「神秘」はアポリアに転落する。

 心身関係、他者経験、奥行の知覚、運動の知覚、言葉と意味、人間的世界と自然的世界、存在の意味、時間の体験、そして合理性の根拠の謎など、本書で取り扱われている問題、いや神秘は、実際にこの世に生きて事物を知覚し他人と語りあい、過去を回想しつつ未来に向けて何ごとかを企てるわれわれの生存の現実を、その本来の姿を歪めることなく反省し構造分析することによって、初めて了解されるのである。「現象」に視座を置くとは、生存の状況を追体験的に理解することである。

 知が知自身を反省する場合も、距離をとらねばならぬ。距離をとることは、結果的には現実の事象に想像上の事象を置き換えることにほかならない。理解さるべきことは、私の生存、私の知覚、他者経験、世界経験、知的作業等々である。理解する主体も私自身である。私を生きる私は、私の諸現象を理解するために、私自身に対して距離を置かねばならぬ。

 ベルクソンのいうように「分別」こそ、知の条件である。

 私は私の実存状況を理解するために、現実から一歩退き、理念性の地帯を設けねばならぬ。

 そして「事象が問題であろうと歴史的状況が問題であろうと、それらを正しく見ることを教える」のが哲学だ、といわれている。

 しかしこれは現実の状況が本質的構造の投影だということではなく、後者は前者をみる際の正しい視角を提供するということなのだろう。

 自由は現実の状況を否認することではないし、またこれに妨げられているのでもない。状況をおのれのものとして引き受け、その促しに答えることこそ自由の実現である。

 一般的に知的活動が現実に向う場合、知性の所産たる諸概念によって現実を説明しようとするのは当然である。しかし現実の知的な説明が、現実に対するわれわれの営為の道標となることと、それが現実を構成すると考えることとは別である。

 現象学が超越論的観念論に陥ったり、本質の実在論に逸脱したりする恐れを、メルロ=ポンティはたえず警告している。

 われわれの時間性にしても、自然的時間に根づいていなくてはならない。完全に先験的決意性によって捉え尽くされそれによって産出される時間性なるものは、かえって時間の唯一性、絶対の現実性を失ってしまう。

 私は私自身に与えられている。私は世界を媒介として私自身に臨むのである。

 合理性を合理性の経験から分離してはならない。それは理念の天空に永遠的な姿で存在しているのではなく、私と世界との、他人との交わりを通じてそのつど経験され、意識の目的論に従って私がより高次の世界表象を作る際に、この表象の有効性として現われるのである。

 メルロ=ポンティは、哲学的創意の「正統性はひたすら、われわれの歴史を引き受ける能力を、それが実際われわれから与えてくれることに基づく」といっている。そしてまた、現象学は先行する一つの存在を明るみに出すことではなく、存在そのものを創設することである、ともいう。つまり哲学は先在する真理の反映ではない。

 「未完成の世界を引き受けてそれを全体化し、思惟しようとする行為」こそ哲学なのだ。

 哲学は無意味を引き受けて意味と化す実存の弧(志向の弧)の緊張の極限を意味するものでなければならない。
 われわれはみずから欲してこの世に生まれたのではない。われわれの生は与えられたものである。その意味でわれわれの生存の事実は不条理である。

 神を先頭に立てる形而上学はやはり一つの「上空飛行」であろう。われわれは、生を受けているこの世界を見渡すことはできない。その営為に参加することができるだけである。

 私は私であって決して他人にはなりえない。他人の実存は私にとって、私の実存と等しい近さ、密度をもつことはありえない。他者の心性は私にとって想像の対象でしかありえぬ。

 むしろ、他者の私からの距りこそ、他者を他者たらしめる根源的経験の事実なのであり、私にとって想像はできても絶対に直接経験しえぬものであればこそ、他者の世界経験は私のそれと補いあい移行しあうことができるのである。私の他者経験は派生的なものではない。

 私自身の感情においてすら、錯覚的意識の危険にさらされているのである。そしてこのような誤謬の可能性、経験の不十全性こそ、私と私をとりまく諸事物、ならびに他者の存在の厚みを証するものなのである。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。