リチャード・セラを訳す
私はその観客ではなくて、その一部なのだ。
私の知覚の有限性を可能にすると同時に、いっさいの知覚の地平としての世界全体へのその開在性を可能にするのである。
メルロ=ボンティ
この現象学的読解の下では、いかなる対象も言わば中立的には与えられず、私たちが対象を見るときの距離やその時に強いられる角度によって、変形されて与えられるのである。距離と視点は対象に付加されるのではなく、対象の意味に内在するのだ。ちょうど音声が私たちの言語に、初めから単なる雑音や騒音から分離しつつ、常に-既に与えられている意味の基盤を与えているように。
知覚的「与件(データ)」はこうして、事物がある所与の視点に対して呈示する意味として再定義される。「両眼の収斂と見かけのお大きさは、奥行きの記号でも原因でもない。つまり、それらが奥行きの経験のなかに存在しているのは、動機が、よしんばそれとして明瞭に取り出せない場合でも、決断の中に存在しているのと同様なのだ。」
「距離をおいて眺めるある仕方」
ジャコメッティの人物像が持つこうした距離の表現が現象学と結び付けられたのは、それが、対象とそれを眺める人、見るものと見られるものの相互関係の表現と見做されたからである。それは、どんなに近付いて作品を吟味しても消え去らず、どんなに拡大しても追い払うことはできない、「離れて見ること」の表現と理解されたのだ。というのもこのオブジェは、見る者がそこから離れているということの印を、その意味として身に付けているからだ。つまりこの彫刻は、他者によって、彼が眺めている場所から見られるということが意味するものの痕跡を永遠に保ちつつ、永遠に見る者の眼差しの輪光の中に捉えられた人体を表現したのである。ジャコメッティの人物像の不明瞭さ、伸長、正面性は、すべての見る者のそのような離れた眼差しの印と理解されたのである。
というのもメルロ=ポンティは一九五〇年にはまだ英訳されていず、そしてサルトルの言う「状況的人間」とは一般に、知覚的人間ではなく倫理的人間として理解されていたのだ。
〈シフト〉1970ー72年
作品にとっての(現実の地平に対置される)内的「地平」を確立し、さらにその内的「地平」が、見る者の対象に対する視覚を、対自的に対する見る者の関係によって絶えず決定する、そうした遠近法のネットワークとしての作品の構想。そして、見るものが自らの世界に対して関係する営みを作品が際立たせるという関係の他動性(「上昇させ」、「下降させ」、「圧縮させ」、「迂回させる」)という観念に至るまで、これらすべては——眼を見張るほど自然に——『知覚の現象学』から溢れ出るものである。
そこでは彫刻が、ドナルド・ジャッドやロバート・モリスのミニマリズムの作品におけるように、遠近法との戯れの中に住まうのである。
彼らの作品において、抽象的幾何学は、位置を定められた視覚の定義に従属させられている。
というのも、ジャコメッティが対象世界とりわけ人物像の表現の中には距離の描写を宿らせるところに、セラは「前対象的経験」を作動させようと望んでいるからだ。
そしてメルロ=ポンティが根本的なモデルとして構築するのは、身体の空間によって前対象的な与えられるこのような諸連関のもろもろの意味の体系の中における、「背後」と「正面」の相互連結性にほかならない。諸対象の連関についてのあらゆる経験の前対象的基盤としての身体が、『知覚の現象学』が探求する、最初の「世界」なのである。
「対象を見るとはすなわち対象の中に身を沈めることだ……何故なら諸対象は一個の体系を形成していて、その中では対象の一つが現われるためには他の諸対象が身を隠さねばならぬようになっているからである。より正確に言えば、ある対象の内的地平は、まわりの諸対象が一つの地平となるのでなければ、対象となることはできないのであって、見ることは双面をもった行為なのである。」
このような身体の地平と世界のそれとの橋渡し、この抽象的な他動性ーー「奥行き短縮する」「収縮させる」「圧縮する」「迂回させる」——は〈シフト〉の主題と見做されてなくてはならない。
見る者と見られる者の相互他動性、両者が視覚空間の中で位置を入れ替わり互いに作用を及ぼし合う際のその活動ーーこの交叉的軌線が、セラの多くの作品における主題なのだ。それは一個の抽象的主題であって、たいていそれに呼応する「抽象的な」形態の「支持体」が与えられる。例えば〈ディフェラント・アンド・ディフェラント・アゲイン[異なりともうひとつの異なり]〉(1973年、グッゲンハイム美術館で設置)における、対角線方向へ向いた五メートルのバーとそれらが視覚的に「位置をずらす」二つの鉄のブロックのように。
抽象的主題というものは、セラにとって、時間の函数でしかあり得ない。時間の中で固定され、孤立して変化しない主題はいかなるものであれ、彼にとっては一つのイメージとなるのであり、そしてイメージは定義上抽象的ではないのだ。それは何かのイメージであり、常に何かの描写なのである。
距離は、オブジェの表面に、永久に留められたモデリングの断口や、顔の両頬が私たちの眼前に急激に後退することによって刻印されているのであり、それ故私たちは、物理的に離れても近付いても、常にこの「距離」のイメージを呈示されるのである。
というのも視野がまさに変化する瞬間にこそ、イメージのように固定された状態に束縛されずに、見えるものが経験されるからである。
彼にとって世界は、私がそこに存在する前ににすでに実在しており、また彼は、そこに私の場所をすでに指し示している。このとらわれた精神もしくは自然的精神こそ私の身体なのだが、それは、私の個人的選択の道具であったり、あるいは、あれこれの世界に固定されるような一時的な身体ではなく、いっさいの特殊な焦点をある一般的な投企の中に包み込むような無記名の〈機能〉系なのである。
『オリジナリティと反復』ロザリンド・E・クラウス/著、小西信之/訳より抜粋し引用。