ヘルダーリンはこう言っていた。
われわれーー人間たちーーは一つの対話であると。
対話は同一の現前に関するやりとりである。対話は、或る共通の意図において、われわれを一つに混ぜ合わせずに結びつけようとする。
このことは、詩作と空談とを区別することをわれわれに可能にするであろう。
すなわち、空談は空虚のうちで、つまり存在者の現前の外部で語っていると。
それでは、「いつから」われわれは一つの対話であるのか。
世界が存在してからであり、時間が存在してからである。
対話は、われわれがそれについて話している共通の現前をわれわれにもたらす。
ところで、そのような現前は、持続、恒久性、恒常性を必要とする。
徐々に消えて行く現前についてどうやって会話するというのか。
ただ時間のみが、それなしには対話が存在できないだろう、この現前としての現在をわれわれに与えうる。
以上のことは、変化についても真実である。
たしかに、われわれは変化を認め、「変化について語る」ことさえできるが、
われわれがそうできるのはただ、その変化がとどまっている現前に関しての変化であるかぎりにおいてのみである。
混沌とした端的な動性は変化しない。
われわれが対話するのは、「時間が存在してから」であり、「われわれが歴史的存在者であってから」であり、
要するに、われわれが実存してるからである。
というのも、時間的であること、世界を構成すること、歴史を展開すること、現存在として実存すること、
これらがいずれも厳密に類義の表現だということをわれわれは知っているからである。
現存在、世界、時間、歴史、これらの出現は同じ起源をもつ。
空談[=日常的な言葉]は存在者との接触の途絶えた無定見なお喋りにすぎないからである。
空談は根源的現前を欠いており、それを通俗的な欲求を満足させる見せかけの現前に置きかえる。
空談は中身のない言葉を連ねるだけで事足れたりとする。
「詩作は言葉による存在の創設である」
『マルティン・ハイデガーの哲学』アルフォス・ド・ヴァーレンス/著、峰尾公也/訳より抜粋し引用。