mitsuhiro yamagiwa

2021-03-09

二重化という間隔

テーマ:notebook

シュルレアリスムの写真的情景

 デリダにとってむろん、間隔化(スペーシング)は、意味の外側の境界、つまり、ある一つのシニフィエがもう一つのそれが始まる前に終わる境界――を示す外在性ではない。それどころか、間隔化は意味そのものの前提条件として急進化され、そして間隔化の外部性は、既に「内部」の条件を構成することが明らかにされているのである。間隔化が現前性を「嵌入する」この運動は、シュルレアリスムの写真とそのダダの先行物との示差を照らし出すものであることが示されるだろう。

 「間隔化」された写真映像は、写真の持つ幾多のイリュージョンの中でも最も有力なそれの一つを剥奪される。
つまり現前性の感覚を奪われるのだ。写真の誇る一瞬の捕獲とは、現前性の取り押さえと凍結である。それは同時性のイメージ、あらゆるものが、所与の瞬間には所与の空間の中においてほかのあらゆるものに対して現前するあり方のイメージである。

 写真は一つの連続平面の上に、視覚が一瞬に捕まえるすべての痕迹あるいは刻印を留めるのだ。写真的イメージはこの現実の分補品であるだけでなく、〈ある時に現前していたもの〉としてのその統一の記録でもある。
 しかし間隔化は、同時的現前性を破壊する。何故ならそれは物事を、相次いでにせよ、互いの外部となって―—個別の細胞に収まって―—にせよ、順次的に示すからだ。間隔化こそが ―—ハートフィールドやトレチャコフやアラゴンやプレヒトにとってそうだったように―—私たちは、現実を見ているのではなく、解釈や意味作用の群がる世界、すなわち、記号の形式的前提条件である隙間あるいは余白によって膨張した現実を見ているのだということを、明確にするのである。

 しかし何よりも重要なのは、二重化の戦略である。何故なら、二重化こそが、間隔化の形式的リズム
―— 一瞬を統一する条件を消去し、その一瞬の内部に分裂の体験をつくり出すツーステップのリズムを生み出すからである。
二重化こそが、オリジナルに対してそのコピーが付け加えられているという考え方を誘い出すからだ。二重像は、オリジナルのシミュラクルであり、第二のものであり、代理物である。それは第一のものの後にやってくるのであり、この追従において、それはただ物影または映像としてのみ存在し得るのだ。ところが、オリジナルと同時に見られることによって、二重像は、第一のものの純粋な特異性を破壊する。重複(デュプリケーション)によってそれは、オリジナルを、差異の効果、遅延の効果、〈あるものがあるものの後にくる〉あるいは〈あるものの内部にある〉という効果へと開くのだ。すなわち、同一のものの内部で芽生えるマルティプルの効果にである。
 この遅延の感覚、現実を「息の間合い」へ開く感覚を、私たちは(デリダに従って)間隔化と呼んできた。しかし二重化は、現前性を連続へ変質させるだけではない。それは第一のものを、この連鎖の中に、一つの意味する要素として繋ぐのである、すなわち、生の事実を、シニフィアンという因襲化された形態に変えるのだ。レヴィ=ストロースは、幼児期の言語体験の始まり―—子供の発達し始める記号の知識――における、純粋に音声的な二重化の重要性について述べている。

 反復はそれ故、片言の「野生の音」が、故意で、意図的なものとなったことを示すものであり、それが意図するところは、意味である。
二重化はこの意味で「意味作用のシニフィアン」である。

このようにして写真的媒体は、一個のパラドクスを生み出すよう巧みに利用される。
すなわち、記号として構成された現実――あるいは不在、再現=表象、間隔化、エクリチュールへと変容させられた現前性というパラドクスをである。

 というのも、運動=停止という観念は、本質的に写真的だからである。

 超現実(シュルリアリティー)とは、言わば、一種のエクリチュールへと痙攣した自然である。写真はこの体験に対して、現実的なものに対するその特権的結び付きという特別の通路を持っている。そのとき写真にできる諸操作――私たちが間隔化と二重化と呼んでいるもの――は、これらの痙攣を記録するように見える。

 間隔化は、現実的なものの同時的体験の中の裂け目、連続へと流れ出す裂開の印である。
写真的切り取りは常に現実という切れ目のない組織における裂開として体験される。

フレームが示すのは、言わば、世界の絶え間ないエロティックな象徴のエクリチュール、その不断のオートマティスムとでも言えようものを、見出し、単独に取り出すというカメラの能力である。

とりわけ シュルレアリストが、その現実に付け加えたものは、再現=表象あるいは記号としての現実の視覚であったというのが、私のテーゼである。そこにおいて現実は、あの支配する代補、すなわちエクリチュールによって、拡張されると同時に置き換えられ、もしくは取って代わられたのである。写真というパラドキシカルなエクリチュールによって。

『オリジナリティと反復』ロザリンド・E・クラウス/著、小西信之/訳より抜粋し引用。