付論 罪の定義がつまずき可能性を蔵しているということ、つまずきについての一般的な注意
驚嘆は幸福な自己喪失であり、嫉妬は不幸な自己主張である。
つまづきもそれと同じである。
なにかを弁護するということは、いつでも、そのものを悪く推薦することである。
ところで、キリスト教であるが、むろん、キリスト教を弁護する者は、いまだかつてそれを信じたことのない者である。
第二章 罪のソクラテス的定義
罪は無知である。
ソクラテス的定義にまつわる難点は、この定義が、無知そのもの、その起源などがさらに立ち入っていかに理解されるべきであるかということを、無規定のままにしている点にある。
むろん罪は、もともと、無知とは別のあるもののなかにひそんでいるのでなければならない。罪は人間が自分の認識を曇らせるにいたったその活動のうちにひそんでいるのでなければならない。
すなわち、人間が自分の認識を曇らしはじめたその瞬間に、はたしてそのことを明瞭に意識しているものかどうか、という問題が起こるからである。
人間が認識を曇らしはじめたときにそのことを明瞭に意識しているとすれば、その場合には、罪は〔無知が結果であるかぎり、罪は無知ではあるけれども〕認識のうちにあるのではなく、意志のうちにあるのであり、そこで、認識と意志との相互の関係という問題が起こらざるをえないであろう。
ソクラテスは実は罪の規定には達していないのである、これはもちろん、罪の定義にあっては、欠陥である。もし罪が無知であるならば、罪は実は現に存在しないことになるからである。なぜかというに、罪は意識にほかならないからである。正しいことに無知であって、それがために不正をなすということが罪であるならば、その場合には、罪は現に存在しない。
精神生活には静止状態というものは存在しない〔そもそも、状態というものすらなく、一切が活動なのである〕。
意志は弁証法的なものであり、それにまた、人間のうちにある低級な性質をことごとく掌中に握っている。
そうしてだんだんと延ばしていくのにたいして、意志は別に逆らいもしない。意志はほとんど見て見ぬふりをしている。こうして認識がしたたかに曇らされてしまうと、認識と意志とはお互いに以前よりもよりよく理解し合うことができ、ついには、両者が完全に一致する。というのは、いまや認識は意志の側へ移っていってしまって、意志の欲するところがまったく正しいのだと認めるにいたるからである。
人間は、自分が罪のなかにいるのであるから、自分自身の力で、自分自身の口から、罪が何であるかを明言することはできない。
つまり、罪は、人間が正しいことを理解しなかったということにあるのではなく、人間がそれを理解しようと欲しないことにある、と言うのである。
概念的に理解するとは、人間的なものに関する人間の能力である。
「わたしは自分が完全な人間だなどとは言わない、完全などころじやありゃしない。しかしわたしは、自分が完全などころでないことをちゃんと知っているのだ、そればかりか、わたしはむしろすすんで、わたしがどれほど完全かさからほど遠く隔たっているかを、告白するつもりだ。これでも、わたしは罪か何であるかを知らないというのだろうか?」
キリスト教的にいって、罪は無知であり、罪が何であるかにてついての無知なのである。
罪とは、神からの啓示によって、罪は何であるかが解き明かされたのちに、神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、絶望して自己自身であろうと欲することである。
第三章 罪は消極的なものではなくて、積極的なものであるということ
概念は積極的なものを措定する、しかしその積極的なものが概念的に把握されるということは、つまり、それが消極化されるということにほかならない。
概念的に把握しようとするあらゆる試みが自己矛盾であることを明らかにすることができさえすれば、問題はふさわしい方向をとり、キリスト教的なものは信仰に、人が信じようと欲するか欲しないかに、ゆだねられねばならないことが明らかになる。
概念的に把握されることを欲しないものを概念的に把握しようと欲することが、手柄になることであろうか、それはむしろ恥知らずなことか、分別のないことではないであろうか?
まずキリスト教が出てきて、人間の語性ではけっして概念的に把握できないほどしっかりと罪を積極的なものとして措定する。それから、その同じキリスト教が、人間の語性ではけっして概念的に把握できない仕方で、この積極的なものを取り除くことを引き受けるのである。
『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。
単独者と多数者 »