mitsuhiro yamagiwa

〔1〕神との関係においては、男と女といったような区別は消滅するが、そこでは、献身が自己であること、また献身によって自己が獲得されるということが、男性にも女性にも当てはまる。

〔2〕人は自分を絶望におとしいれるものについて絶望する。

しかし、正しい意味で自分を絶望から解放してくれるものの場合には、すなわち、永遠なもの、自己の救い、自己自身の力などの場合には、それにたいして絶望するのである。自己の場合には、自己自身について絶望するとも、自己自身にたいして絶望するとも、両方の言い方ができるが、それは、自己が二重に弁証法的だからである。

〔1〕ひとつの関係が生ずるためには、少なくともふたつの関係項目がなければならない。

「関係がそれ自身に関係する」ということは、「自己反省」「自己意識」であり、「内面的な行為」なのである。言いかえると、それは人間の「意志」にかかわることであり、均衡のとれた関係にある自己本然の状態を選びとろうと決意することである。

〔25〕「抽象的になる」というのは、「本来の自己たろうと決意しない」ことで、さきの「具体的になる」と反対の意味である。

〔53〕快も不快も「私に快い」「私には快くない」というふうに、物が主となって「私」が与格であらわされ、この感情が受け身であることを言っているのである。

第二編 絶望は罪である

A 絶望は罪である

第一章 自己意識の諸段階〔神の前に、という規定〕

 神の観念が増すにつれて、それだけ自己も増し、自己が増すにつれて、それだけ神の観念も増す。

 罪の定義があまりに精神的でありすぎるとうことはありえない〔ただし、それが精神的でありすぎて、罪を排除してしまうというのであれば、話は別である〕、と。というのは、罪とはまさに精神の規定にほかならないからである。

 信仰とは、自己が、自己自身であり、また自己自身であろうと欲するにあたって、神のうちに透明に基礎をおいている、ということである。

 しかし、罪の反対がけっして徳ではないということは、実はしばしば見のがされてきた。そのような見方はかなり異教的な考え方であって、単なる人間的尺度で甘んじ、罪が何であるかをあらゆる罪が神の前にあるということを、けっして知らないものである。そうではなくて、罪の反対は信仰なのである。

『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。