デジタルによる複製
楽譜は開くことができず沈黙している。聴かれることで音楽は演奏される。デジタル化は視覚芸術をパフォーミングアーツに変えるといえる。
デジタルデータの視覚化は常にインターネット・ユーザーによる解釈の行為である。
機械による複製の場合には、オリジナルは目に見え、コピーと比較できる。そしてコピーは修正され、オリジナルの形式を歪める可能性は減る。だがオリジナルがもし目に見えないならば、そのような比較は不可能である。
デジタル化されたイメージは、われわれユーザーがそれらに特定の「いまここ」を与えない限り存在しない。
こうして、オリジナルとコピーの関係はデジタル化によって根本的に変化した。そしてこの変化は近代性と現代性の裂け目の契機として記述されうる。
そして手で作り出されたコピーは、他の全ての手で作り出されたコピーとは必然的に視覚的に異なったものになるが、機械による複製は差異を消去することを運命づけられている。
デジタルによるコピーを作ることで、私は自分自身のコピーを提供している。私の個人用のコンピュータのスクリーンの背後にかくれた、目に見えない鑑賞者にこのコピーを提供している。
われわれの現代性の経験は、観察者としてのわれわれに対して事物が現前することとして定義されるのではなく、むしろ隠された観察者の眼差しに対してわれわれ個人の亡霊が現前することとして定義されるのである。
第10条 グーグルーー文法を超えた単語
人間の生は世界との引き延ばされた対話として記述することができる。人間は世界に問いかけ、世界から問いかけられる。
われわれの世界との対話は、その媒体と修辞の形式を規定する特定の哲学的前提に常に基づいている。
今日われわれは第一にインターネットを通して世界との対話を実践する。
真の知識そのものは、人類が最近扱った、全ての言語、全ての単語が出現した総計として理解される。
このようにして、グーグルは言語を個別の一連の単語へと徹底的に分解することを前提とし、それを成分化する。グーグルは通常の言語のルールや、文法への従属から自由になった単語を通してオペレーションを行う。
グーグルを通して問うことは、脱文法的な一連の単語の集合体、検索された単語が現われる単語の集合体を回答として前提としている。
グーグルはトポロジー空間としての言語という同じ理解に基づいている。
グーグルは、可能性としては無限だが、想像上のものでしかない文脈の激増を有限のサーチエンジンに置き換えることで、徹底的に脱構築へと変える、と言うことができる。このサーチエンジンは、単語の意味の無限の可能性を検索するのではなく、それを通して意味が決定される。
事実、想像の無限の遊戯は、あらゆる単語があらゆる文脈において生じる状況の範囲内にそれ自身の限界を持つ。そのような状況においては、すべての単語は意味において同一となる。それらは皆意味を持たずに一つの漂うシニフィアンの中へと崩壊する。グーグルは、実際に存在しており、すでに表示された文脈に検索を限定することによって、このような結果を防ぐ。異なった単語の経路は有限のままであり、したがって異なっている。
そしてこれらの収集されたものは、「リアル」、つまり素材であり、また多様なものである。
グーグル検索の文脈では、インターネット・ユーザーはメタ言語学的な場に自分自身を見出す。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳