mitsuhiro yamagiwa

2024-03-08

一回的に在る

テーマ:notebook

第9章 近代と同時性ーー機械複製とデジタル複製

 われわれの時代はまずそれ自体に興味を持つ。世界中で現代美術館が急増していることは、このように今ここに鋭い関心が持たれていることの唯一の、しかし極めて明確な兆候である。同時にそれはまた、われわれは自分自身の同時性について知らないという、広く行き渡った感情の兆候でもある。そして実際、グローバリゼーションのプロセスと、世界のあらゆる場所で起こっている出来事をリアルタイムで知らせる情報網の発達は、異なったローカルな歴史のシンクロナイゼーションをもたらす。われわれの同時代性はこのシンクロナイゼーショーの効果であり、その効果は繰り返し驚きの感情を引き起こす。われわれを驚かせるのは未来ではない。われわれは自分自身の時代にほとんど驚いている。それはいくらか異常で不可思議に感じられる。それは、現代美術館の中に入り、極端に異質なメッセージ、形態、態度に直面するときに経験する驚きの感情と同じである。

 近代と現代の違いを記述し解釈するにはさまな方法があるが、私はこの違いを二つの複製のモードの対比として分析したい。つまり、機械による複製とデジタルによる複製である。ヴォルター・ベンヤミンによると、オリジナルなものとは単に現在が存在していることーー今ここで起こる何かーーの別の名前に過ぎない。したがって、オリジナルを複製するわれわれの異なったモードを分析することは、現在つまり同時代性を経験するわれわれの異なったモード、時間の流れと共存する異なったモード、時代の中でオリジナルな時代の出来事と共存する異なったモードを分析すること、そしてこの共存を生み出すために用いる技術を分析することを意味する。

機械による複製

 『複製芸術時代の芸術作品』の中でベンヤミンが完璧な複製の可能性、オリジナルとそのコピーを視覚的に区別することをもはや不可能にする複製を想定しているのは有名である。

 彼が提起した疑問は「オリジナルとコピーの視覚上の区別が消滅することは、この区別自体の消滅を意味するのではないか?」というものである。

 どんなに完璧な複製においても、欠けているものがひとつある。芸術作品の持つ〈いま-ここ〉的性質ーーそれが存在する場所に、一回的に在るという性質である。

 この見方に従えば、複製技術の時代は何かオリジナルなものを生み出すことはできない。それは過去の時代から受け継いだ、オリジナルなもののオリジナリティを消去することができるだけである。

 オリジナリティのアウラは、複製のための技術的手段によって自然を大量に侵食することに対する抵抗の契機として機能する。

 グリーンバーグはアヴァンギャルドを究極的には模倣的であると定義している。つまり、もし古典的な芸術が自然の模倣ならば、アヴァンギャルド芸術はこの模倣の模倣であるからだ。

 アドルノもまた、「破壊された自然」の中と、人間と自然との調和がとれた真のオリジナルな統合へのノスタルジーの中に正当な芸術の起源を見つけることができると信じている。もっとも彼は同時に、そのような統合は幻想的なものでしかありえず、統合へのノスタルジーは必然に誤解を招くことを主張するのだが。

 芸術のアヴァンギャルドにとっては、オリジナルであることは自然と関わることを意味しない。

 事実、新しいものの生産は最初から、それがのちに複製されることを前提としている。これが、とりわけアヴァンギャルドの歴史が、誰が最初か、誰が何がオリジナルなものを創造したか、そして誰がただの模倣者かについての際限のない口論の歴史である理由である。

 むしろアヴァンギャルドは新しい工業の世界の名に下に自然のミメーシスと決別することを望んだ。

 還元はもっとも効果的な再生産の展望を開く。複雑なものよりも簡素なものを生産する方が常に容易である。

 機械による複製によって定義される近代のパラダイムの中では、現在の存在は、ある瞬間、つまり革命の瞬間、アウラ的な還元の瞬間にのみ経験することができる。この瞬間はこの還元の結果を革命後に複製する道を開く。これが、近代が永遠に革命を切望する時代である理由である。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳