第30節 規範と偶有
ベルクソンにいわせると人工的なシステムは機械的ではあるが実在的ではない。
アランにとって芸術は運動を停止させ形式を固定させる傾向がある。つまり不動性にこそ表象の基礎をおく。しかるにベルクソンにとっては反対で、かかる固定化はむしろ生成に対する拘束なのである。
病理的なものとは規範や秩序の欠如ではなく、むしろ健康の規範から逸脱した一つの規範なのであり、したがって正常と病理の間には対立はないが、病理と健康の間には対立がある。健康を特徴づけるのは規範の変異を忍耐する能力である。
人間が真に健康であるのは、彼がいろいろな規範を許容できるときだけ、つまり正常以上であるときだけなのである。
第31節 不思議の火
病理は有機体がその環境に適応する能力の衰弱として定義される。健康な有機体は多様な環境にみずからを適応させることができ、またその環境の何らかの要素をみずからを力づけるために採用することができるが、病気の有機体は一定の環境にしかみずからを適応させることができず、そのようにしてみずからの内部環境を維持することができない。
「環境が正常であるといえるためには、生物たちがそれをみずからに有利なように利用できていなければならない。正常というのは形態と機能の規範という観点からしかいえない」。
再帰性こそは生物とその環境との間で確立される規範の機構である。
病気もこの類型の偶然の出来事として見れば何らかの新たな規範の確立に導くものであり、そしてこの新たな規範とは有機体とその環境との間の何らかの新たな関係でもある。
病気は正常な機能というものを、それが病気のせいでわれわれからは奪われているまさにそのときに明かしてくれる。
健康とは器官の無知である。その知識が可能になるためには、あらゆる無知がそうであるように、それは失われなければならない。
しかし真に生命的な驚きとは、病気によって引き起こされた苦しみなのである。
つまりそれは健康の防衛なのである。この状況は生物的なものの機械的なものへの従属から労働者を解放するための人間と機械の或る新たな関係を要求する。
自動化主義はもはや反復ではなく再帰に関わる。
ハイデガーのいう哲学の概念とともにそしてそれを超えて思考するには、思考は変容を可能にさせる新たな条件を同定することでフィードバック循環の閉塞から脱出しなければならない。
今日のわれわれはまた別の状況に直面しており、そこでは機械的なものは、第一に有機的なものの形式をとりつつあり、第二に生物的な進化を凌駕しつつある。
『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。
集団的=間個体的 »