mitsuhiro yamagiwa

第27節 デカルトと機械的諸器官

デカルトには器官学的な思考の形跡がある。

 「われわれは新たな身体のつくりかたを知らないから、自然内部の器官に自然外部の器官つまり人工の器官を付け加えなければならない」。『屈折光学』

 われわれが デカルト主義に見るのは、有機体を機構に置き換え、動的な機能的なものを解剖学的なものに置き換えることで、目的論を生産技術の中に囲い込み、生命の目的論を消去したということである。

第28節 テクノロジーの哲学者としてのカント

 カントはむしろ何であれ「感覚の対象としてこの自然において必然的であるものは機械的な法則にしたがい判断しなければならない」ことを肯定しているが、しかしこう続けるのである。「特殊的な法則とそれにしたがい帰結した型式との合致や統一でありながら、機械的な法則からすると偶然としかいいようのないものーーそういうものが理性の対象としての自然には実存しており、それゆえじつにわれわれは自然を一つのシステムとしてのその全体性においては目的論的な法則に照らして考察することもしなければならない」。

 カンギレムは機械的なものと有機的なものが結ぶ深い共犯関係を民俗学のさまざまな資料から示そうとしている。

 一. 有機的なものは機械的なものに還元できない。反対に、機械的なものは有機的なものの特殊な一事例として見ることができる。機械化は有機体の単純化と合理化をもたらす。

 ニ. 技術対象は器官の投影に起源をもつ。

 内的なものを外化することで、人間たちはみずからについての知識を再帰的に獲得する。

 器官と技術のこうした親密な関係は人類学者アンドレ・リロワ=グーランによりさらなる研究がなされた。彼の技術の進化についての民族誌では、技術は同時に記憶の外化でもあり身体器官の解放でもある。

われわれが強調しなければならないのは、しかし、カントが明文化しようとしていたのは経験的なもろもろの法則の総体性としての「一つの全体としての自然」の知識であり、かかる全体は客観的には知識しえないということである。全体は未知にとどまるが、それでも理性理念(あるいは発見的な原理としての超越論的な仮定)により、ひとはあたかも全体がそれそのものとして現前している「かのように」これに接近できる。理性が全体性に到る道は反省的判断力であり、これがもろもろの自然法則を統一する。全体と反省的判断力のこうした関係は、その目的が客観的には未知でありながら主観的には理性により思考できるような再帰性というものを前提にしているように見うけられる。この再帰的な過程において諸部分を条件づけているのもまた全体なのである。

第29節『創造的進化』における器官学

 進化が創造的であるのはそれが再帰的であるからである。それは繰り返される生存術の改良からなり、これにより確立される作為性ともろもろの間対象的な関係性を通じて新たな世界観が開かれてゆく。

 どの回路も同じ対象や同じ場所への回帰ではなく、むしろ有機的なものと無機的なものの再組織化なのである。

 外在的合目的性が意味するは、単純な設計には還元しえない、有機的な全体の複雑性に条件づけられた、偶然性、創造性に開かれているということなのである。

 機械はそのさまざまな部分かは把握できるが、有機体はその全体からしか把握できない。

 われわれは機械にはそれがそのようにつくられたところのもの以上にものを要求することはできないが、逆に有機体は「それがそれであるところのものではなく、それがそれでないところのものなのである」。

 ベルクソンのいう全体は一つの有機体を構造的に定義するものではない。むしろそれは生命そのものなのである。

 『創造的進化』は哲学を科学の根底に位置づけ生命を機構の根底に位置づけることで進化論者の哲学を批判的に検討した論考である。ここでわれわれは時間の問いに触れることになる。生命は持続するからである。

 進化とは「現在の中への過去の実在的な永続であり、いわばハイフンつまり結合符号のようなものとしての持続である」からである。しかもそれは創造的でもある。

 ベルクソンのいう進化は持続であり、しかもこの持続は「絶対的に新たなもの」ということからわかるように多数のものからなり、それとともにもろもろの不連続性や変化もまたこれを数学化された存在体や対象化から区別している。生命が意味するのは、過去の永続、そして持続における全体とその諸部分の共立なのである。

 二元論は持続において把握され直観によって解決される。

 生の飛躍とはつまり組織化の力なのであり、これは有機体に直接的に影響するか、あるいは有機体を通じて無機的なものを有機体の一部にすることで間接的に組織化するか、二つの仕方がある。

 知能は物質に働きかけることでその中に空間を見いだし、後者もまた前者の図式化を支援することでこれがひとりで継続できるようにする。われわれはかくして知能と物質を同じく発生の二つの側面として見ることができる。

 つまり、物質が知能の形式を規定するわけでもなく、知能がみずからの形式を物質に押し付けるわけでもなく、物質と知能がわれわれのよく知らない予定調和なるものによりそれぞれ統制されてきたわけでもなく、むしろ知能と物質が少しずつ相互に適応しあうことで最後には一つの共通の形式に到達するということなのである。

 行為は、再帰的な形式から抜け出させる偶然の出来事と同じように、知能をその日常茶飯事から連れ出し、それが大海のごく表面にすぎなかったことを明かす。「[なおも]意識の状態は知能を超えて氾濫する。それはじつに知能では計り知れない。それは不可分にして新たなものであるからである」。

 合目的性はもろもろの傾向に拘束されている。

 そして物質と知能の両方の発生とは抑制(Hemmungen)との絶えざる接触のことであり、これが転じて意識の運動の傾向を規定しているのではないのか。二元論はそうするとこの潮流に還帰するための方便でしかないのではないか。

 物質は堕落(chute)して考えられる。それは忘却(oubli)の産物なのである。

 「われわれの分析すべてが示しているのは、生命の内には物質が降りてゆく坂を再び登ろうとする努力があるということである」。

 蒸気の充満した容器を想像してみよう。この容器には亀裂が入っており、蒸気はその割れ目めがけて逃げ出そうとする。ところが外気に触れるとこの蒸気は結露するから、容器の中へと滴り落ちてくることになる。このとき逃げ出す蒸気は水滴を持ち上げてその落下を遅延させようと努力している。ベルクソン

 物質とは、この例に見られるように、生命の運動を逆転した運動なのである。ただしそれは生命に対立しておらず、むしろ進化に必要な条件である。

 緊張から延長への移行は一つの逆転である。

 弛緩するとは、ベルクソンいわく、緊張を解き放つことで延長するということである。カンギレムは延長を空間から区別している。前者は知覚の内容であり、後者は均質な諸部分の純粋な外部である。したがって「物質とは意識の可能な方向づけであり、それゆえ空間というよりは延長である。

 空間とは知能が粗描した成果なのである。

 もし行為が知能の反省の引き金をひくことでこれを創造性に送り返すものであるとしたら、反省は知能が強制的にみずからに帰りみずからを超えさせられるときにしか起こりえない。この反作用的な強制力は物質そのものにほかならない。物質との接触を通じてこそ生命の計り知れない潜在的な諸傾向は現働化ないし個体化されている。しかもその個体性はつねに一つの有機的な全体の内へと再び連合され再び統合されている。

 おそらく形式の形式化は物質の物質化と相関的である。

 物質とは内化されたもろもろの器官である。「[道具は]その制作者の本性に反作用する。というのも新たな機能を行使するよう彼に呼びかけることで、それは彼にいわせればより豊かな組織化を授けるからである。それは自然な組織化の延長上にある人工の器官なのである」。

 秩序と無秩序が相対的であるからこそ、ベルクソンは進化を知能の運命から生命の無限の可能性へと送り返すのである。

 生命は根本的に人工的なのである。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。